6. 本章のまとめ、および「高天原(たかあまはら)」の今日的状況と意義
(1)本章のまとめ
高天原の「天」の訓みは、
①アメではなくアマであること。
②マノではなくアマが本来の訓であること。
①・②は、すでに明らかであろうと思われる。ましてや、
③上代においてマガなどの訓みは本来、あり得ないこと。
しかし、最後の課題として、
④アマノであるかアマであるか。
もし、高天原が、「たかあまのはら」であったならば、【高天之原】と記し、「之(=の)」が入るはずである。前述の祝詞だけでなく、『日本書紀』においても【高天原】と【高天之原】の2種類の表記がみられる。これも後者が単なる表記漏れではなく、出所や読み方等に何らかの違いがあったと考えるのが自然であろう。③・④については次章でさらに述べたい。
筆者は、吉田留らと同様に、「訓高下天云阿麻」の訓注に、失われゆく古い大和言葉(言霊(ことだま))を守ろうとした古事記筆録者(一人とは限らない)の懸命なる意思を感じざるを得ない。
やはり、『古事記』編纂者の指示に忠実に従うならば、「高天原」の訓読は、「たかあまはら」または、「たかあまのはら」以外にはないように考えられる。
高天原の訓みは、本来、濁らないように、「たかあまはら」、あるいは、「たかあまのはら」であり、これが連続する母音の短縮形として「たかまのはら」と読まれた。さらに「たかまのはら」が転訛して「たかまがはら」となった訳である。当然、「たかまがはら」の読みは歴史的に新しい。
聖なる世界としての高天原の訓みは、上代では清音であり、濁音の「たかまがはら」が流布していったのは中世以降である。