第一章 機械と向き合う人生の始まり
戦争の記憶
私は、一九四二(昭和十七)年八月二七日、山梨県北巨摩郡字駒城村柳澤(現在の北杜市武川町柳澤)で三男として生まれた。
私の上には二人の兄と節子と保美子という二人の姉がいた。しかし長男の忠は十四歳の時盲腸で亡くなり、次男の勇は一歳で亡くなったので、私が事実上の長男になった。
その後私の下には和彦という弟も生まれ、その下には瑞穂という妹がいる。弟は二〇一一(平成二十三)年八月二十日に六十二歳で亡くなった。
長男の忠が亡くなったのは、私が生まれる一カ月前の一九四二(昭和十七)年七月だった。私を忠の生まれ変わりだと言って、母は大切に育ててくれた。
当時家の前に池を作っていて、忠もその手伝いをしていた。忠は何度もお腹が痛いと言ったが、父は仮病だろうと取り合わなかったらしい。
その後盲腸が急激に悪化し地元の病院ではもうどうすることもできず、甲府まで荷車で運んだそうだ。そしてしばらく入院して治療を受けたが、体内に炎症が広がり手遅れだったと、中学生の頃母から聞いた。
幼い子を亡くす。それも一人だけではなく二人まで亡くすとは、父と母にとってどんなに辛いことだったか、人の親となった今ならよくわかる。
父は山梨の生まれだが、長野に住んでいた時期があった。だから私より上の兄や姉達は、長野で生まれている。
母と結婚する前の父は山梨にいた。嫁さんを探すために長野に行こうと父を誘ったのが、五郎さんだ。五郎さんは馬車で荷物を運ぶ仕事をしていた。五郎さんは、何かと父を助けてくれて、二人は親分子分のような関係だったという。
父と母は長野県の茅野で見合いをして結婚した。仲人は五郎さんだ。結婚後父は下諏訪で銭湯を始めることになった。
その後駒城郵便局局長の仕事をしていた、父の親友が重病だという知らせが届いた。駒城郵便局は今も残っている有名な郵便局で、私達が住んでいた山梨県の北杜市にある。当時その地域には駒城郵便局しかなかった。
彼は亡くなる少し前に駒城郵便局のあとを頼むと父に言ったそうだ。そこで父は銭湯を引き払い、山梨に戻り、駒城郵便局の仕事をすることになった。
当時は真珠湾攻撃で太平洋戦争が始まって間もない頃だ。日本は戦争一色で、万歳!万歳!の声に見送られて、成人男性が次々と戦地に送られていた時代だった。
本来なら私の父の元にも召集令状が届いていたのだろうが、郵便は重要な国家事業という理由から、父は出征せずに終戦を迎えた。
親戚にも父親が戦死したという人が多い。父の妹の夫も戦死した。食べものも着るものもなく非常に貧しい生活だったが、両親が揃っていた私は恵まれていた方だと思う。私達が住んでいた地域には東京などから疎開してきた人も多かった。
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