3 本能寺の変が光秀の犯行だとするには不可解な光秀に関する事象

1 本能寺の変の前々日に弓・鉄砲などを入れた長持ち百個を備中に送った光秀

山崎長門守と林亀之助によると、光秀は本能寺の変の前々日の5月29日に亀山城から弓・鉄砲・矢玉を入れた長持ち百個を備中に送っている(この年、5月に30日はなく、5月29日の翌日は6月1日)。光秀が数日後に信長を討つ気なら、その後の信長の子息や織田家重臣との戦いに武器が必要なことは明白であり、備中に送ったりしないはずだ。

この件について、光秀がこの時点では謀反を計画しておらず、長持ちを送った後で謀反を決意したという説を唱える方(かた)がいるが、この時点で決心していなかったとしても、謀反が頭の片隅にあるだけでもこれらの武器を備中に送ったりはしない。

また、信長の茶会の場所、宿泊先、供回りがどの程度かや宿泊先の警護の程度など、謀反に必要な情報は数知れず、1日や2日で掴める情報量ではない。

つまり、遅くとも数日前から各所に家臣を仕えさせたり潜ませたりして情報を得なければ実行不可能な大事件なのだ。すなわち、この時点で謀反を計画していなかったら6月2日に謀反を決行することは不可能ということである。

また、光秀は理知的であり、かつ、丹波攻略中に石山本願寺攻めをはじめ重臣に協力していくつもの城を攻略しており、その後自身も丹波を攻略するなど、他に類を見ないほどの切れ者で、この件で信長から「粉骨砕身」と高く評価されるほどだった。

そんな男が思いつきで行動するはずがなく、ほどなく謀反を起こすつもりだったらその2日前に武具を手放すことなどあり得ないのだ。

この一件だけでも信長襲撃は光秀の仕業ではないといえる。

 

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