沙耶伽は鼻の頭を赤くしてうれしそうに笑った。
「わたし雪女なのかな。北海道から雪を連れてきちゃった。律くんにも、優しい雪がいっぱい降り注ぎますように」
両手を広げ、空を仰いで彼女が言った。
そんな沙耶伽が愛おしかった。雪は休むことなく、街灯に照らされる光の輪の中を踊りながら舞い降りてくる。
僕は両手で沙耶伽を抱きしめる。でも、彼女の手は僕の背中に回されない。それが不満だった。
沙耶伽の柔らかい唇に唇を重ねる。それでも彼女の両手は下げられたままだ。首に手が回されることはない。それが不安だった。
そんな不満と不安の塵が、僕の心の中に澱(おり)となって溜まってゆく。投げやりとかではない。ただどこか恬淡(てんたん)な所が沙耶伽にはあった。もし僕に他に好きな女の子が現れても、僕に執着することはないように思う。
今まで過ごしてきた薄幸な人生の経験から身についたことなのだろうか。沙耶伽の欲はどこまでも希薄で、運命の流れに身を任せる選択枝しか持ち合わせていないように思えた。
彼女が僕を大切に思ってくれているのはわかった。でも彼女の感情はどこかおぼろ気で、僕のことが本当に好きなのか自信を持つことができなかった。彼女との関係を続けることは、雪がいつまでも溶けないことを願うより難しく思えた。
ときおり彼女は父親への思慕の深さを語った。僕はそれを聞くのが辛かった。
芽衣おばさんが逃げ出した後、おじさんと二人で過ごした生活は、沙耶伽にとって塗炭(とたん)の苦しみの日々でなければならなかった。
しかしそれは彼女の中で、すでに浄化されていたことのようだった。
「お母さんに手を上げていたお父さんは、本当に嫌で仕方なかった。でも、わたしは一度もぶたれたことがないの。わたしには優しいお父さんだった」
僕が抱いているおじさんのイメージを払拭したいかのように、沙耶伽は丁寧におじさんのことを語った。
「お父さんとの散歩も嫌じゃなかったの。八事の町のことをいろいろ教えてくれた。今振り返ると、それが子供の頃の一番の思い出になってる」そんな彼女に僕は問う。
「おじさんが亡くなったおかげで辛かった生活から解放されたんじゃないの?」しばらく逡巡し、沙耶伽はつぶやいた。
「人の痛みは、本人じゃないとわからないから」
それ以上何も言えなかった。僕は浅はかな質問をしてしまったことを悔いた。おじさんを殺めた罪を正当化する術(すべ)などないのだ。
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