そこはすっかり白銀に埋まっていて、武家屋敷跡の場所を示す石柱がわずかに首を出していた。美貌をうたわれたお市と長政は、ここで息子の万福丸と茶々、お初(はつ)、お江(ごう)という三人の娘に恵まれ、仲睦まじく暮らしていたのだ。

越前の朝倉義景(あさくらよしかげ)と同盟関係にあった浅井長政は織田信長が朝倉氏を攻めた際、信長に反旗を翻し元亀元年(一五七〇)六月、姉川の戦いになる。一度は撤退を余儀なくされた信長だが、態勢を立て直し、そこに徳川軍も加わった。

それまで横山城を前線基地として攻略を図っていた織田勢は小谷城を目の前に臨む虎御前山(とらごぜんやま)まで前進、北国街道を挟んで浅井氏と対峙した。膠着(こうちやく)状態は三年続いた。浅井側にしてみれば小谷城下を監視下に置かれ身動きが取れない苦しい戦いだった。

年号が天正(一五七三)となった八月、信長は軍勢を大挙して小谷城を囲んだ。小谷勢は総攻撃され長政は自刃した。時にお市は二十七歳、長政との結婚生活は六年ほどに過ぎなかった。

白川の案内でここを訪れた時は出丸から本丸まで登山した。山頂から南方に肥沃な田野が広がり、静かに流れる姉川や琵琶湖に浮かぶ竹生島(ちくぶしま)が望めた。あの当時の白川はお市の気持ちを代弁するかのように説明してくれたものだ。

その晩は大津に泊まった。すでに夜の帳(とばり)が下りていた湖面の景色を眺めると、湖岸の街道に灯る照明の光の帯が点滅していた。「史跡探訪集いの会」の当時のメンバーはどうしているだろうか。自分も高齢になってしまった。ふと、そんなことが過(よぎ)った。すると折も折、白川からメールが入っていた。

一年前の賀状で白川は「東京に行く予定がありますのでお会いできますか」と書いて寄越した。茅根はその前年の暮れから妻が心臓の持病で入退院を繰り返したこともあって、気持ちの上で返信できずじまいだった。そのためか、今年は賀状は来なかった。

 

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