お爺さんに死球を与えた同級生は去年、鬼籍に入りました。高く舞い上がったセンターフライを目に捉え落下点に入り見事にキャッチしたことやライトの左を抜く2塁打を打ったことなどが脳裏に浮かんでいました。
野球は終わりました。係の人がお爺さんに声を掛けました。
「ボールを打ってみませんか」
「あの速いボールは私には打てません」
とお爺さんは答えました。そう答えはしたものの、本心は1度で良いからバッターボックスに立ちたい、バットを振ってみたいと思っていました。
「大丈夫です。ゆるいボールを投げるように言っておきます」
お爺さんは3、4回、バットの素振りをしてからバッターボックスに入りました。1球目は山なりの遅いボールでした。お爺さんは左手でバットをしっかり握り、右手は柔らかく握り、タイミングを取っていましたが、タイミングが合いません。
2球目は外角寄りの高めのボールです。お爺さんは迷わずバットを振り抜きました。バットは球を捉えライトの頭上を越えました。お爺さんはすぐには走り始めませんでした。バットを振り切った状態ですぐ走り出すと腰砕けになり転んでしまうからです。ゆっくり1塁まで走りました。
お爺さんは喜びで全身が震えました。お爺さんの1回だけのバッティングは終わりました。
バッターボックスに入った時からボールを打って1塁に達するまでお爺さんはボール以外の物を見ませんでした。耳には何の音も聞こえませんでした。お爺さんは自分の集中力にびっくりしました。自分もやればまだまだできそうだ。
見物していた人達から「オー」という歓声が上がりました。いつもは電線の上にいる5羽のカラスは今日はバックネットの金網の一番上に陣取っています。そして、カラスの言葉でブラボーと叫びました。お爺さんはずうずうしいと思いましたが、投げさせてほしいと言いました。係の人は快く承諾してくれました。
投球練習の時、投げる時に右肩が開かないように、打者にボールが当たらないように心掛けました。低めに投げようとしましたがこれはできませんでした。
打者に向かいました。ボールは高く外れボールスリーになりました。4球目の高めの、お爺さんの投げた球としては速い球を打者は打ちました。球はバットの上っ面に当たりピチャーフライになりました。
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