カナダへの出稼ぎを終え、老後はゆっくり日本で過ごそうと三尾村へ帰国した者たちが、カナダ風のロッジをあちこちに建てたことから、三尾村はアメリカ村と呼ばれるようになった。

実際にはカナダへの移民者たちだが、アメリカ大陸からの帰還者ということで、アメリカ村と呼ばれた。今でもカナダと三尾村の交流は続いており、三尾村にルーツがある日系カナダ人は五〇〇〇人を超えている。

カナダのお父さんの一家である林家もその中に交じっていた。林家は長男の林太郎(りんたろう)が生まれて間もなく、カナダへ渡った。

晃司と紗季は、和歌山で友人の結婚式に参列した時に美浜町に寄り、日の岬パークのカナダ資料館を訪れた。ここでは日系カナダ人の歴史などを知ることができる。

カナダへ渡っていった人たちの古い写真が大きく掲げてあったので、その写真を撮ってカナダ再訪の折に正雄に見せたところ、「ここに居るのが、私だよ」と一番前の真ん中に立っている小さな男の子を指したので、びっくりした。正雄が五歳の頃にカナダで撮った写真だった。

当時は先に移民した人の家族の呼び寄せや、写真だけのお見合い結婚のために、次々と日本人がカナダへ渡っていった。

カナダ資料館は、二〇一五年二月に管理をしていた日の岬国民宿舎の閉鎖とともに休館したが、二〇一八年七月に三尾地区の古民家に移転して「カナダミュージアム」として再開されている。

日系移民は、そのほとんどがバンクーバー島にある州都ビクトリアやフレーザー川沿いで漁師や林業・農業などをして生計を立てていた。

特に和歌山・滋賀・広島・福岡・鹿児島などから先に渡っていた人のつてで家族を引き連れて移住する人が増えていき、村を挙げて集団移住する人たちもいた。ハワイからの日系移民も交じっていた。

この頃には、中国系・インド系の移民の人たちもすでに住んでいて生活の基盤を築き、中華街やインド通りと呼ばれる地区ができていった。しかし、移民当初はアジア人に対する差別や過酷な労働に喘ぎ、言葉の壁もあり生活は楽ではなかった。

 

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