【前回の記事を読む】出産とともに妻は亡くなり、生まれた娘も6日後には亡くなった。益々商売にのめり込む彼を、アジア人排斥、大戦、火災が襲い…

第五章 三尾村(アメリカ村)

永野万蔵が活躍していた当時、日本からはハワイ経由でカナダへ渡っていたが、一八八七(明治二十)年に横浜・バンクーバー間の太平洋航路が就航すると、カナダへの移民が次第に増えていった。それは、カナダ政府が日本からの移民を制限するまで五十年ほど続いた。

一八八八(明治二十一)年八月、アビシニア号で工野儀兵衛(くのぎへい)が、和歌山県の半農半漁の寒村地三尾村(現日高郡美浜町)から大工の棟梁としてカナダへ渡った。鑿(のみ)、金槌、木槌、のこぎり、カンナなど、いつも使いこんでいた大工道具一式をもって旅立った。

儀兵衛は、その頃すでに来ていた十五人ほどの日本人にいろいろと教えてもらいながら、林業や大工の仕事をして働いた。日本とカナダでは建築方法も家のスケールも全然違っていた。最初は戸惑ったが、カナダ式の丸太小屋作りに慣れてくると、思ったより簡単に誰でも家を作れるなあと思った。

ある日フレーザー川が赤くなるほどの大群の鮭が産卵のために遡ってくるのを見た儀兵衛は、「これは凄い、日本から人を呼んで皆で漁をしたら絶対に儲かる」と、三尾村に移民を呼びかけたところ、三尾村からは毎年数十人の移民者がカナダへ渡って来るようになった。

そして、フレーザー川沿いのスティーブストンの町に住みついて漁業をする人が増えていった。

狭い田畑と少ない漁場しかなかった貧しい三尾村は、カナダへ渡っていった人たちからの仕送りで次第に豊かになっていった。三尾出身のカナダ移民の数は年々増え続け、一九四〇(昭和十五)年頃には二〇〇〇余人に達し、カナダの日系移民社会の一大勢力となった。

「三尾を制する者は、スティーブストンを制す!」と言われたほど、三尾出身者の数は多かった。

最初の三尾村からの移民者だった工野儀兵衛は、後に「カナダ移民の父」と呼ばれるようになった。

三尾村にルーツを持つ人たちは、その集まりを大切にし、「ミーラ 三尾の出身は……」というふうに昔の話が始まる。