第3章 仏教的死生観(2)― 法華経的死生観
また陸奥宗光(一八四四~九七)の二番目の妻・亮子。彼女は絶世の美女として有名だが、明治28・一八九五年、日清戦争後、下関で清国との間で行われた講和会議を終えて陸奥が帰京した時、彼の愛娘は肺結核で危篤の状態だった。
宗光が枕元で看護していると、娘が「お父様、私は覚悟していますが、死んだら何処へ行くのでしょう」と問う。宗光は「正直なところ分からない、ただお前のお母さんはお前の発病以来、毎日観音様を拝み、浅草観音にも縁日には参拝している。そして娘の御前の生死は観音様にお任せした。何処へ行くのか答えられないが、すべては観音様にお任せしている」と答えた。
その言葉に、娘は納得したのか、低い声で観音様の名号を唱えて、間もなく亡くなった、という(原話は釈宗演『観音経 講話』、門脇佳吉編『死の彼方に』南窓社 昭和60年所収の 松原泰道「死の彼方に」より引用)。
また、志賀直哉門下の小説家・網野菊(一九〇〇 ~七八)は太平洋戦争中「従軍したままで生死不明の弟さんのために、毎日観音経を読誦」していた(辻 雙明『禅骨の人々』春秋社 ㉑)。これも、観音の力による死の除去を願う心から発していよう。
女性だけではない、日本画家の小川芋銭(うせん) (一八六 八~一九三八)は友人への手紙に「信仰は人を生死より超越せしむ、(中略)観音経一読御すすめ申候、是は宇宙絶対の力者なる神霊に存する大慈大悲なるものが、実に宇宙の大功徳力なることを知悉(ちしつ)せしめ候」(友野欽一宛 昭和4年6月 斉藤隆三『大痴芋錢』創元社一九四一年 所収)と書く。
さらに、昭和23年に起きた毒物殺人事件・帝銀事件の犯人とされた死刑囚の平沢貞通(一八九二~一九 八七)も、刑務所で絵を描く以外は観音経を朝夕読経していたらしく、「この頃でも観音様の夢を見ます。ありがたいです」と言い、「私が真犯人でないのは確かですよ。しかし、私は死を恐れません。悟りきった境地で毎日をすごしています」と東京拘置所の精神科医官だった加賀乙彦に語っている(『死刑囚の記録』 中公新書 一九八〇年。ただし平沢の虚言癖についても加賀は追記している)。