第1章 令和の今、行政改革最高のチャンス
勤務医の働き方改革
当時は官民接待とか官々接待とかという意識は全くなく、プロパーという製薬会社の薬品販売促進の方々が学会の旅費や宿泊費を持ってくれたり、夜食の弁当を配ってくれたり野球や相撲の観戦チケットを配ってくれたりしていた。そのお陰で甲子園での阪神・巨人戦や大相撲の大阪春場所も見に行けた。ただ週休二日ではなかったので日曜日の昼か土曜日のナイター、相撲は初日か中日、千秋楽であった。
余談にはなるが千秋楽は勝ち越しと負け越しの力士の差が大きく、見るのも辛いので初日に行くことが多かった。このように苦労した仲間の結束力は強く〇〇内科、△△外科という名前の帰属意識で研究や診療、教育に教授の人柄や研究テーマが大きく反映していたのである。
さて、医師の働き方改革が大きな課題となっている。実際は勤務医の働き方であり開業医は事業主であるため該当しない。東大卒の才媛で見目美しい若い方が過労死したということで世間の耳目を集め、広告業界大手の就業実態も白日に晒された。
「電通」という花形企業が槍玉に上がり、これは酷いと働き方の見直しのモデルとなったのである。前述の無給医などは論外の存在である筈。
私が初めて赴任した病院の上司が言った言葉で今も心に残っている言葉、それは「クランクハイトにゾンタークなし」である。つまり「病気に日曜日はない」ということである。私はこれを忠実に守った。
週休二日制などなかった時代、土曜日の午後は研究会、日曜日の早朝から入院患者の回診やガーゼ交換。迷惑そうな顔の看護師には夜に差し入れを持ってお返しした。私が尊敬する旭中央病院長であった諸橋芳夫先生も同じことをやられていたとのこと。
上司のいない回診は自分で考えるしかない。抜糸してもいいか? 食事を始めていいか? 知らないことはベテランナースと相談。これがあったからこそスキルアップでき良かったと今でも思っており、このことは私と一緒に働いた後輩達にも受け継いでいただいた。
後に私の仲間が同じ時期に京大第一外科、第二外科、滋賀医大外科の病棟医長(当時の病棟責任者、入院患者の総責任者)になり鼻高々であった。ワークライフバランスは極めて悪く「時々在宅、ほぼ病院」の生活を強いていたのだから。
家族は大変だったろうが外科の勤務医は皆そんな生活を送っていたのである。嫁さん達は医師官舎の井戸端で愚痴っていたらしいが。