古来より北陸地方は、「こし」越・古志・高志と言われてきた。

「越」という字、古代中国春秋時代・戦国時代(紀元前七七〇~二二〇年)に、国・民族名として登場。紀元前五〇〇年頃、春秋五覇として、斉の桓公、晋の文公、楚の荘王、呉の闔閭そして越の勾践らが群雄割拠、名を挙げていた時代である。

 越国は、現中国浙江省の辺りにあった国で、首都は会稽(現浙江省紹興市)長江流域の百越に属する民族を主体に建設されていた。

当時の越人は、頭は断髪、上半身裸で入れ墨を施していた。案外、今風である。

鉱物、特に銅の生成技術に優れており、一九六五年銅剣が出土する(湖北省江陵県望山一号墓)。銅剣は表面が硫化銅の皮膜で覆われており、錆びていない状態である。この時代、隣国「呉」の「干将」と「莫邪」は歴史上余りにも有名な二刀剣も同様である。(刀鍛冶夫婦の名前から名付けられた悲話が伝説として有名)

また稲作農耕の起こりの地ともいわれ、人間と自然との狭間から様々な歴史の始まりを見せた中国史の始まりでもある。

隣接する呉国とは国民同士が非常に仲が悪く、世にいう「呉越の戦い」が二十年近くにわたり繰り広げられてきた。「臥薪嘗胆」「美人の計」「会稽の恥」「呉越同舟」等々、現在の日本においても一度は聞いた故事成語の発端ともいうべき物語が多々ある。

呉王・夫差(闔閭の嫡男)と賢臣・伍子胥VS越王・勾践と参謀・范蠡の戦いでは、武将たちの指針ともいうべき孫子兵法「戦わずして勝つ」が完成に至るきっかけになった。孫子(孫武)は斉国で生まれ育ち、戦乱の呉で軍師として活躍した人物である。

紀元前四七三年、「呉」が「越」に破れ亡国の民として海を渡り東方・蓬莱の地へと逃れていった。九州から上陸していく。

そして紀元前二二一年、「秦」の中国統一の戦乱の中、「楚」に敗れた「越」が、対馬暖流に乗り日本海を北上してきた。

九州北部から上陸した越人は先に辿り着いた呉人の勢力を避け、また朝鮮半島からの移民を受け入れながら辿り着いたのは、九頭竜川・足羽川・日野川が合流する大きな湖・潟であった。

日本海側の河口は、太平洋側の河口が開ける三角州と違い、潟・内海となる。また内海から外海へと、漁業や農業への様々な開拓に適しているともいえる。それらを誘うかのように折り目正しい四季が、自然が味方になっていたに違いない。

その後の大陸において度重なる大戦が朝鮮半島に伝播され、人々が命からがら海を渡り倭へ亡命してきた。

時が経ち、渡来人がもたらしたモノ・技・思考が風土と混ざり合いながらじっくりと、長い年月を費やし「越大王国」が出来上がってきた。同時期、筑紫・出雲・丹後・大和地方において王国や豪族連合が形を成してきたのだった。

倭の「越国」は敦賀湾から北東を「越のクチ」、富山湾以北を「越のナカ」、新潟阿賀野川以北を「越のシリ」と、大王国であった。河川から津へ、津から他国へと、情報が重要性を帯び出す時代であった。

  

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