訪ねてくる若い男性たちの一人に、映画カメラマンを目指していた楠田浩之がいた。恵介が松竹の現像部から撮影部に入った頃に知り合った浩之とは、戦時中の中国で偶然出会って親交を深めていた仲である。同じ蒲田に家があった浩之は、恵介や忠司の家をよく訪れるようになり、芳子を見染めたのだった。

一九四三(昭和十八)年、恵介が監督として初めて作った映画『花咲く港』は、撮影技師となった浩之が務めた。以来長きにわたり、恵介の映画のカメラマンになった浩之と芳子は、翌年三月に結婚式を挙げた。浩之二十八歳、芳子二十歳のときであった。忠司と同い年の浩之は、恵介や忠司の義理の兄弟になったのである。

辻堂の恵介の家にいた幼い私(忍)は、訪ねて来た浩之や芳子によく会っている。祖父を見舞ったり、仕事の話もあったのだろう。恵介も浩之も、そして恵介の下働きをしていた八郎も、みんなお酒が好きで話が弾んでいたようだった。

私は、一緒に来ていた従弟の泰之とよく遊んだ。泰之は私より一歳下で、とても元気な男の子だった。部屋の中を駆け回っていたとき、廊下の端に置いてあったサボテンに倒れ込んで大泣きだった。お尻の棘は痛かったことだろう。

私が十歳で静岡に行って三年が経った頃、中学校の制服を着た泰之が一人で遊びに来たこともあったが、久しぶりだったためか会話も少なかった。八郎が、兄の廣海や誠司と一緒に日本平に連れて行ってくれたことを覚えている。

その泰之は、大人になって木下恵介プロダクションに入り、テレビプロデューサーや演出家を経て、監督デビューしている。

  

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