本が好きで、よく詩や文章を書いていた少女だったので、母は恵介に似た力があるのではないかと思った。

恵介は、学校で物語を創ることが得意な子であったが、早くからたまはその才能を見抜いている。助監督時代にはすでにいくつかの脚本を書き、それらは先輩である吉村公三郎や中村登らによって映画化された。脚本家としても十分な素質がある恵介は、原作を見つけてシナリオを書いたり、自分の創作した話を脚本にしたりして、それらを映画化している。

芳子は女学校に通うようになったが、浜松市立高女では映画館に行くことが禁じられていたので、たまは名古屋の映画館に芳子を連れて行った。監督になる前の恵介の脚本した映画は、全部観に行っている。芳子に映画を観る目を養い、シナリオへの関心を引き出す努力を惜しまなかったのである。

蒲田から移った大船撮影所に通う恵介や、武蔵野音楽学校に通っていた忠司のために、たまは東京の蒲田に一軒家を借りたことは前述した。そこに、浜松から手伝いの女性を連れて行ったが、たまも浜松から出向いて行くこともあった。子供たちの生活費を援助してやり、何かと世話を焼いていたのである。

ピアノもあるこの蒲田の家には、恵介の友達がよく来ていつも賑やかだった。学校が休みの芳子も、たまに連れられて行くことが多かった。

十六歳の芳子には、兄たちの世界はずいぶん刺激になったことだろう。小柄できりっとした顔立ちの芳子は、母や兄たちにとっても自慢の娘であり妹であった。

浜松の女学校を出た芳子は、東京渋谷にある実践女子専門学校家政研究科に進んで、この蒲田の家から通うようになった。