第一部

次女 芳子 ── 堅実な脚本家、木下家の末子

木下家の末子は、六人続いた男子の後に生まれた作代の二歳下、一九二四(大正十三)年三月に生まれた芳子である。長男・寛一郎との年の差は二十二歳であり、このときの周吉の年齢は四十八歳、たまは四十四歳であった。

働き者の両親が一代で浜松屈指の「尾張屋」を築いたことだけでもすごいことだが、八人の子供たちに愛情を注ぎながら立派に育てたことは、木下家の血を引く孫の一人として、私が祖父母を尊敬する所以である。

しかも、才能ある映画監督の恵介、素晴らしい曲をたくさん作った音楽家の忠司、そしてまた脚本家となって活躍した芳子を世に送り出したのだから、一体どんな育て方をしたのだろうと、改めて考えさせられる。

芳子は脚本家になってからも、兄の恵介や忠司のようにメディアに出ることは多くなかった。恵介の映画のほとんどを撮影したカメラマンである夫・楠田浩之の妻として、のちに演出家となった楠田泰之、宏子の二人の母として、母のたまのように家庭を守っていたからであろう。派手なところがなく、しっかりとした自分の考えを持った慎ましい女性でもあった。

「私たちはすごく仲の良い兄妹であった。父も母も忙しい商人であったが、大勢の子供たちを同じように愛し、それぞれの好きな道に進ませてくれた」と、芳子は子供時代を振り返っている。