「してないよ」
一瞬間があって、あの人は答えた。その顔はそんな質問をされること自体がはじめてであるかのように笑っていた。
私は続けて「彼女はいるんですか?」と聞きそうになった。でも、さすがにそれは踏み込みすぎだと思って止めた。それにもし「いる」と言われたらどれほど傷つくかわからなかった。私はきっと彼女はいないはずだと勝手に決めつけることで心の平安を保った。
「どうしたの? やたら僕のことばっかり聞くけど」
「別にどうもしないです。ただ気になっただけで」
私は探るようなあの人の視線から逃れるように目を逸らした。はたしてあの人を騙せただろうか。でももし騙せなかったとしても、心を見透かされたとしても、それは隠さなくてはいけないことではなかった。むしろ私は嘘を見抜いてほしかった。あの人のことを質問するのは、好きだからだと気づいてほしかった。
私たちは無言で歩いた。私の体はずっと燃えていた。もしあの人に触れられたら簡単に燃え尽きてしまいそうだった。こうして二人並んで景色の綺麗な公園を、あるいは波が打ち寄せる浜辺を歩けたらどんなに素敵だろう。
手と手を繋ぎながら生徒と先生ではなく、愛し合う者同士として歩けたら死んでもよかった。しかしいつの間にか職員室に辿り着いていた。あの人はやはり何も気づいていなかった。
私がここで別れることをどれほど寂しく思っているのかも。あの人は授業を終えて教壇を下りるときとまったく同じ表情で「じゃあ、気をつけて帰ってね」と言った。それは一人で帰れという意味だった。私の体は一気に冷たくなった。あの人の言葉は氷のように私の熱を奪った。
時間はあっとう間に過ぎていった。二学期の期末テストでも、私は世界史で満点を取った。答案用紙が配られるとき、あの人からは「よくやったな」と言って褒めてもらえたが、はじめのときほど嬉しくはなかった。
なぜならあの人との距離は少しも縮まっていなかったから。私は表面的な褒め言葉よりも、もっとあの人の心の声を聞きたかった。先生としてではなく、人としての、あの人の生の声を。もし仮に私がテストで零点を取ったら、あの人は心配してくれるだろうか。
よそゆきの言葉ではなく本心でその理由を聞いてくれるだろうか。それならいっそ零点を取りたかった。私はけしてあの人に褒められるために満点を取っているのではなかった。
あの人の授業を一言も逃さず聞いていることを伝えたくて頑張っているのだ。でもあの人にそれはまったく伝わっていなかった。
【前回の記事を読む】見つめながら、触れたいという不思議な感情が芽生えた。あの人の体に、頬に、髪に、唇に。緊張感のない弛緩しきった肉体は、無警戒な心そのものだった。
次回更新は1月5日(日)、22時の予定です。
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