「じゃあ行くぞ」と言って、鬼島がニードルの絶壁に入っていった。一応フィックスロープは張られているが相当に老朽化しており、体重をかけたら切れてしまいそうな代物であった。しかし鬼島はそんなフィックスロープなどには見向きもせず、岩壁のわずかな突起にアイゼンの前爪を引っかけながら数歩クライムダウンし、そこから雪壁の中に足を蹴り込みながらゆっくりと、しかし確実にニードルの岩塔をトラバース(横方向に進む動き)していった。
十メートルほどトラバースしたところに壁がえぐれている箇所があった。足場がなく、見るからに悪そうであったが、鬼島はうろたえることもなくその上部にバイルを打ち込み、上体を安定させてから大きくスタンスを取り、えぐれた壁の向こう側の雪壁に足を蹴り込み悪場を越していった。
川田は鬼島の動きに合わせて確保器からロープを送り出していった。三十五メートルほどロープが出たところで鬼島の動きが止まり、それ以上ロープが伸びなくなった。鬼島はニードルの向こう側におり、もはや川田の側から鬼島の姿を確認することはできなかった。ロープの動きが止まってからしばらくして「ビレイ解除!」と言う鬼島の声がニードルの向こう側から響いた。
川田は、手元の確保器からロープを外し、「ビレイオフ! ロープアップ!」と大声で返した。すると鬼島はロープを引き始め、やがて川田の手元で余っていた分のロープすべてが手繰られ、川田のハーネスを引っ張りそうになったところで「ロープ一杯です!」と再び川田がコールした。ロープは止まり、しばらくして
「登っていいぞ」という鬼島からのコールが返ってきた。あとから登る川田を確保する準備が整った合図だった。
【前回記事を読む】【厳冬期 剣岳・小窓尾根】「マイナス40度は結構やばい」入山二日目の早朝、気象予報をラジオで聞くと…
次回更新は1月7日(火)、8時の予定です。
【イチオシ記事】ホテルの出口から見知らぬ女と一緒に出てくる夫を目撃してしまう。悔しさがこみ上げる。許せない。裏切られた。離婚しよう。