二〇一四年一二月頃より正座するのが辛くなっていた。

二〇一五年五月(六十六歳)に整形外科医院で「脊柱管狭窄症」と診断され通院し始めた。その年の秋頃には右足に変調をきたして、自転車のペダルを踏むにも力が入らず、よく転びそうになると訴えるようになった。

二〇一六年七月に転倒して右足を骨折した。日曜日だったため近くの救急指定のB病院の整形外科を受診し、三カ月間通院した。

同年一〇月に「胸腺腫」が見つかり、同じくB病院で内視鏡による胸腺腫の手術をした。ペレットの上に取り出された赤肉は大型の蝶の数倍の大きさほどあり、真ん中に巣くった白っぽい直径三センチになった貝柱の形をした腫瘍が、胸腺ごと取り出された。

二〇一六年五月頃から腕が上がりづらくなっていた。

二〇一六年十二月再び転倒して手首にひびが入った。

手首のひびが完治したある日、京子は洗浄した米が入った炊飯器の内釜を大きな音と共に床に落とした。熱湯の鍋でなくてよかった。こういった失敗が多くなり、危なくて炊事を任せられなくなった。

母が落ち着きを取り戻したことだけが幸いだった。京子の状況を理解した母は渋々、「京子の病気がよくなったら、家に帰らせてくれるな」と念押しして、近所の知り合いが入所した同じ施設に入った。

亡くなる前には認知症の負の波が長くなり、正常な時に京子が不治の病だという私の知らせをときおり思い出すのか「代わってやれるものなら、京子と代わってやりたい」と、おぼつかない記憶の中で急に思いついたように話すことがあった。

その後、母は家に戻ることなく百歳でこの世を去った。 

母が施設に入所してからしばらくは、何事もなかったように夫婦だけで一緒に過ごしていた。

何時からか京子は、施設から電話がかかってくる度に、事務員からの内容も聞かずに、怯えた表情で受話器を私に渡すようになった。その怯えは日を重ねても、決して軽くなることはなかった。むしろひどくなった。

母の入所後に妻が一度だけ私に言ったことがあった。

「こうして何も考えずに草むしりをしていると、気持ちが落ち着くのよ」

今までそんなことを聞いたことがなかった。体中が痛くなってくるのだ。私はその時、妻の母に対する後悔の入り混じった複雑な気持ちを知った。

互いにすれ違った母と京子の気持ちが理解できても、私は何もできなかった。

私と結婚しなければ、母との関係に悩むことも、矢継ぎ早に病気を発症することもなかったかもしれない、と思うだけだった。

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次回更新は12月15日(日)、21時の予定です。

 

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