第2章 仏教的死生観(1)― 浄土教的死生観

第7節 心中と浄土信仰

さらに、元禄8・一六九五年、「心中流行の始祖」(磯村英一『心中考』講談社 一九五九年)といわれる三勝・半七心中事件が起きた。芸妓か遊女らしい「女舞笠屋三勝(年頃二十四五計(ばかり)の女)」と「大和五条の赤根屋半七(年頃三十四五の男)」の大坂千日寺における心中で、半七は咽喉を切り、腹ほぞも突いていて、遺書には「恋も無常も知る人ぞ知る……何事も〱恋とひん(貧)とのふたつから、かくあさましく死をとげまゐらせ候……刃にかかりながらも、まさかの臨終正念成仏、あびらうけん〱(密教の呪文)と、涙ながらに書残しまゐらせ候」とあったという(宮沢誠一「元禄文化の精神構造」松本・山田編『講座日本近世史4』有斐閣 一九八〇年 所収)。

そして、遂に元禄16・一七〇三年4月7日、これも大坂で徳兵衛とお初の「曽根崎心中」(とその後言われる心中事件)が起きた。それを近松門左衛門が脚本化し、1か月後に人形浄瑠璃「曽根崎心中 付タリ観音廻り」として竹本座で上演し、民衆の大喝采を受けたことが、小林の言う「文化としての心中」を確立することになった。

「恋を菩提の橋となし」、すなわち「恋の迷いは悟りの世界への架け橋」と近松が規定したことによって、心中は「罪障感から解き放された死」(廣末保「死と蘇生」『辺界の悪所』平凡社 昭和48年)となったのである。「恋愛の享受を来世まで持ちこもうとする希求」との丸山真男の言い分はこれに当てはまるだろう。

もっとも、ここには仏教の「煩悩即菩提」(「煩悩がそのままさとりの縁となること」前掲④)という伝統的な思想の反映もあったはずだが、ともあれ、「未来成仏疑ひなき恋の手本」となったこの曽根崎心中の後、元禄16年から翌宝永元年の「二年間に合計三十六件の心中事件」が起こり、元禄から享保の約50年間に、「浄瑠璃で三十六回、歌舞伎で九十五回」心中物の上演があったが、諏訪春雄は「元禄・享保期の心中は、現実が芸術にしたがって跡を追っためずらしい実例である」と記している(『心中︱その詩と真実』毎日新聞社 昭和52年)。