東京編
「角野さん、いかがでしょうか?」
「とてもいいね。僕の仕事は新車販売だけど、僕が売っている新車よりずっといいよ」
「え、同業者の方だったのですね。失礼しました」
「いやいや、同業者だからどうっていうことはないよ。TYPE R、運転させてもらって目が醒めた。でも今日は買うつもりで来たわけではないので」
「とりあえず、見積もりだけでも出させていただけませんか? この車の価値が分かる角野さんのような人にぜひ乗っていただきたいです」
「上手なセールストークですね」
「ありがとうございます。それでは、お客さんの車に乗って下取りできるかどうか調子をみてくると所長に伝えてきます。しばらくお待ちください」
こんな会話を交わしながら、ただ単純に車が好きだった頃の自分を思い出した。MR2は2人乗りなので、家族でどこかに行くときにはタイムシェアの車を利用していた。
TYPE Rは思ったよりスペースが広く、家族で乗れるのがいい。所長との交渉も終わり、鍵を亀井君に渡してMR2に乗った。今度は僕が助手席だ。彼は手慣れた様子でエンジンをかけ車を走り出させた。シフトアップもスムーズで慣れた運転だ。
「状態、とてもいいですね。20年以上前の車とは思えないです。エンジンも足回りも素晴らしいです。僕が買いたいくらいです」
そう言われてとても嬉しい。免許を取ってすぐ乗り始めた車がこのMR2だ。10年以上乗っているので、単なる車ではなく、もう友達のような存在だ。いや分身といってもいい。この車を手放すなんてことが本当にできるのだろうか?
この日、TYPERを試乗したことが決め手となった。僕は翌日、系列の中古車会社への異動を願い出た。次の日には、所長の山上さんに呼ばれて所長室に行った。
「どうかしたか? 最近は少し成績が振るわない月もあるけれど、わざわざ自分から希望して子会社に出向することはないだろう。何か困ったことでもあるのか?」
優秀な部下が相談なく会社に異動願いを出したことで自身のマイナス査定になることを恐れているのかもしれない。僕がいなくなって売り上げが下がることを避けたいという面もありそうだ。
「いえ、そういうわけではありません」
「じゃあ、どういうわけなんだ。分かるように説明してくれ」
正直なところをできるだけ理解してもらえるように説明したところ、山上所長はしばらく目を瞑って考えていた。そして目を開けて静かに言った。
「それでは、上層部には将来もっとたくさんの車を売るためにいろいろと経験を積ませて欲しいということを表向きの理由にしておくよ。それでいいな。高価な新車を売るより、安くてもいい中古車を車が本当に好きな人に売りたいという理由は、新車販売を完全に否定している。いつか本社に戻りたくなるときが来るかもしれないからな」
「ご配慮ありがとうございます。よろしくお願いします」
「それから、出向先はこれから検討するが、君はここのエースだから営業成績が上がっていない営業所にナンバー2という立場で行ってもらうことになると思う。営業成績を回復させて、また本社に戻ってくることを期待しているよ」
ありがたい話だ。所長のこと、誤解していたようだ。きっと僕のことを考えてくれているのだろう。