第一章
7
作家の作った役を演じる、架空の人物になりきる私の仕事は嘘つきの仕事。けれど、役者、女優にとっていちばん必要のないものは自分への嘘だと思う。自分の心の奥底にある自意識や、どろどろした欲望、本能的な衝動に嘘のつけない、ごまかすことのできない自分には向いた仕事だと思っていた。
もしも女優というものがなければ、私はこの深い場所からこみ上げる、暗くて熱いマグマのようなものに焼かれてしまっていただろう。私は私を許せないのだから。
娘がリストカットしたの。死のうとした。
私は自分の欲望のために河合の娘を傷つけた。聡を殺した。私はパパを殺した。自分が助かりたいがために、父と弟を殺した。
気がついたら公園にいた。陽はすっかり暮れている。ブランコに腰掛けながら、凍える手に息を吹きかけた。
寒い。とても寒い。
車のエンジン音がした。のっぺりとした車が公園沿いの路上に止まった。ドアが開いた。男が出てきた。大男だ。
男はゆっくりとした足取りで公園に入ってきた。嫌な予感がした。
「お姉さん、ひとり?」
背後で声がした。驚いて、声のした方に顔を向ける。男がいた。小柄な男だ。小柄な男がにやにやと笑いながら近づいてくる。
「こんばんはー」と小柄な男は言った。変声期前の少年のような声だった。今日子はブランコから降り、入り口にいる大男の間をすり抜けようとした。大男が今日子の腕をつかんだ。
振りほどこうとしたが、男の力は同じ人間とは思えないくらいに強い。小柄な男が声を上げて笑った。
「逃げられませんよ、お嬢さん。あなたはこれから犯されるんだから」
大男が今日子を羽交い絞めにし、分厚い右手で口を塞いだ。振りほどこうとしたが、まったく身動きがとれない。目を見開く。なんとかして逃れようと懸命にもがくが、大男の腕が万力のように絞めつけて離れない。
パニックになる。思考が働かない。冬だというのに汗が噴き出る。
やめて……誰か……助けて……助けて……誰か──!
「おい」
公園の入り口付近で声がした。すがる思いで今日子は目を向けた。長身の逞しい男が立っていた。男は飢えた肉食獣のような殺気を放っている。
どこかで見た男……。そう。下北沢の駅前にいた男。自動販売機に背をもたれかけながら、私をじっと見ていた男。男が言った。
「その女から離れろ」
博昭は小柄な男が今日子を尾行しているのに気づいていた。が、しばらく様子を窺った。尾行の意図をはかりかねたからである。
博昭は気配を消し、後を尾けた。尾行中、突然男が振り返った。咄嗟に電信柱に身を隠す。
男は警戒しているらしく、周囲をきょろきょろと見回した。男の顔が見えた。その顔を見た瞬間、脳内からアドレナリンが噴出した。
矢部兄弟。通り名はサイコパス・ブラザーズ。骸の潰し屋。最強、最悪の兄弟である。今日子を尾行していたのは兄弟の兄、矢部恭平であった。
チビの兄、恭平は変質者で、ナイフで犬猫を切り刻むのが趣味。動物以上に好きなのは人間を傷つけること。女の泣き叫ぶ声で射精をしたという噂もある。
黒塗りのレガシィB4が公園に横付けされたとき、博昭は予想した。兄弟は必ずペアで行動をする。予想は的中した。車内から出てきたのは……。弟……矢部信二。
巨漢の弟、信二はバカ力のボクサー崩れ。ただ、見た目とは裏腹に、激情型の兄と違い、冷静沈着で、一筋縄ではいかないタイプだった。また、ワンパンチで相手を倒すことにこだわっており、博昭を倒すことを目標にしているらしかった。
矢部兄がおどけるような仕草で博昭に体を向けた。恭平は細身ながらも、その軽い身のこなしにバネのきいた筋力を感じさせた。博昭は恭平に目を配りながら、ゆっくりと信二と今日子に近づく。矢部兄が身構える。最初に口を開いたのは弟の方だった。
「工藤。おまえとは一度サシで勝負をしたかったんだ」
意外にも落ち着いた口調だった。なおも警戒を解かず、矢部兄が、信二から、今日子を受け取った。今日子は抵抗したが、逃れることはできなかった。
信二は今日子から離れ、首を傾けながら博昭を見た。身長百八十センチある博昭よりさらにでかい。
兄、恭平は今日子の首に腕を回して、空いている手で内ポケットから何かを取り出した。アーミーナイフ。
今日子の体がビクッと跳ね上がる。その怯えた顔に恭平がナイフを這わせた。
「声出すなよ、ねえちゃん」
恭平は口元に笑みを浮かべている。