ブラームスも4曲だが、彼の場合、第一交響曲を作曲したのが四十三歳の時だった。六十四歳で亡くなっているから、その間、二十一年しか時間がなかったのである。何故第一交響曲の着手が遅れたのかは、様々に言われているが、概略次のようなことである。
他に多くの作曲予定があったためとか、公的な仕事が重なって極めて多忙であったなどと言われているが、一八七〇年代始めに当時親しかったピアニストで指揮者のハンスフォン・ビューロー(ニコライ・ルビンシュテインがチャイコフスキーのピアノ協奏曲第一番を演奏不能と酷評したため、チャイコフスキーはあっさりとこの曲をビューローに献上してしまったというエピソードがある)に次のように言っている。
「偉大なベートーヴェンが背後から迫ってくるのを感じると、とても交響曲など書く気にならないのだ。ベートーヴェンの9曲と並んで存在価値のあるものを考えると、どうしても筆が進まないのだ」と。
そのためブラームスは、第一番を書くまでに二十年以上もの長い歳月をかけて構想を練り、何度も推敲を重ねてやっと四十三歳の時に完成したのである。考えてみればブラームスもやはりベートーヴェンの亡霊に悩まされた人の一人と言える。
そのためかどうか、ベートーヴェン以降、ショスタコーヴィッチを除いて、10曲以上の交響曲を書いた大作曲家はいない。
特にマーラーなどは、この九番目という運命的な数字を嫌い、自身九番目のシンフォニーを縁起を担いで、第九番とせず『大地の歌』と題した曲を作ったほどである。しかし、その後この迷信を払拭して、第九番を新たに完成したのだが、第十番目を作曲中、そのスケッチと断片を残したまま、迷信通りあの世にいったのである。
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