聖徳太子が摂政の時期に、蘇我馬子の主導で「天皇記・国記」の撰がなされた記録はあるが、大化の改新時に蘇我氏の滅亡とともに焼失したとされている。
しかし『日本書紀』が「持統天皇」(四一代)まで記載しているにもかかわらず、『古事記』は「推古天皇」(三三代)で終わっている。この事実を勘ぐれば、『古事記』は「天皇記・国記」を参考に選択、抜粋した歴史書との疑問が生じる。
「天皇記・国記」にも、当然継体朝の不連続性を記載したと考えられる。なぜなら継体朝への移行はおよそ百年前の出来事であり、多くの人の伝承や記憶に残っている史実であったから、虚偽の記述はできなかったのだろう。
さらに百年後の『記紀』の編纂に際しても、この史実を隠ぺい、歪曲できなかったのではないだろうか。では『記紀』が創作物でない立場を採るならば、編纂時に資料となるべき情報がどこからもたらされたものかを考慮する必要がある。
『古事記』の序文に「天武天皇」(四〇代)の言葉として「諸家が持っている帝紀と本辞に誤りが多い」と引用されている。帝紀、本辞とは歴代の天皇の記録と考えて良い。
しかしこの時代の記録とは何だろうか。紙はすでに中国で発明されているが、容易に手に入る代物ではない。平城京や平安京跡の出土品に竹簡や木簡があるように、まだ紙は貴重であった。
紙の発明以前の中国では、竹や木を柵状に削り、紐で編んだものに文字を記し巻いた物を記録として保管していた。一巻が相当な嵩と重さなので、時を経るにつれ、保管される巻物は大きな書庫を必要とする。
古代日本に木(竹)簡の巻物やそれを収蔵する書庫の存在を証明する遺物、遺構は皆無と言って良い。したがって前述の帝紀や本辞の編纂時に用いられた情報が記録として残されていたとは考えにくい。
文字の伝来が遅れ紙や筆記用具の普及が十分でない時代に、歴史的情報はどのような形で残されていたのだろうか。
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