「審判の判定に対して『反対や!』と異論を唱えるけれど、覆ることはほぼない。これでは絶対勝てんな、と。本気で世界に出て行く、しかも勝つためにはまずどんな相手だろうと公平に見てもらえるようになるまで、日本の地位を高めないといけない。

だって、この1本を取った、と思っているのに相手へ入ってしまったら戦う選手にとってはその時点で2点分マイナスなんですよ。それじゃあ勝てんわ、と思いますよね。それやったら、審判に認めてもらう組織にならないといけない、と思いましたね」

その第一歩となったのが2000年。詳細は後に記述するが、張西は日本フェンシングの国際競技力向上を視野に、自らFIEの委員会に立候補し、日本人として初めて当選した。これでFIEの委員会や国際大会などに役員として参加することができるようになり、国際大会招致を含め日本の地位を上げることにもつながるきっかけを得た。

翌年には国際委員会の委員長となり、2002年にポルトガルのリスボンで行われた世界選手権へFIEの役員として現地へ帯同したが、すべての種目がほぼ1回戦敗退。惨敗と言っても過言ではない結果に、張西は今後の方向性を探るべくコーチ陣を招集した。

本気で世界を勝つためには、このままじゃあかん。もっと本腰を入れて強化に尽力してほしい、と訴えるも、これ以上仕事は休めない、やることはやっている、と上がってくるのは後ろ向きな意見ばかり。張西の訴えに賛同したのは1人。サーブルコーチの齊田守だけだった。