夕食後、中田は危機を脱したと思った。効いたのはMから貰った抗生物質であった。インドへ来ての初日の夜のバイキングの食べ過ぎ等が徐々に胃腸を弱めていって、中田をガンジス河の水辺に立たせなかったのかもしれない。

中田はツアーの参加者とは特に親しく話をするようなことはなかった。中田の若い頃のツアーだと、国内旅行の場合、参加者名簿が必ず配られ、氏名、住所、電話番号が分かった。ところがこの平成13年のツアーでは既に名簿が配られることはなく、初日の夕食の席で自己紹介をすることもなくて、一期一会を大切に楽しい旅を、というような配慮を添乗員はしなかった。業界の方針なのであろう。旅行が知られては、家族や職場で差障りがでる人もいるのであろうか。もっとも、気が合った者は、どこかで酒を酌み交わしていたかもしれない。

参加者の中で中田の目にとまったのは、母と娘の二人であった。二人はツアーの場所場所で、必ず線香をあげ、数珠を持ち、手を合わせていた。インドの線香は30cm程の長さの針金に線香の粉がついていた。中田は一本貰ったのでその場で共に手を合わせた。母は昼食には必ず土地のビールを飲んでいた。

比較的壮年で亡くなった連合(つれあい)の菩提をお釈迦さまのインドで弔い、ビール好きだった配偶者を偲んでいるのであろうか。娘は飲まず、母だけが旨そうに飲んでいたので、ビールは母の嗜好にすぎなかったのかもしれない。