その声で我にかえると、楠には何もぶら下がってなどいない。
「え……! あ……!?」
声の主は常盤色(ときわいろ)のモダンなワンピースを身に着けた美しい娘だった。
「弥子(やこ)、さん……!」
「どうなさったの」すっかり月が出て辺りは夜目にも明るい。だが目を凝らしても首吊り女など見当たらなかった。
(でもあの前掛け、ここの使用人の雅子さん……では)靄が掛かってそれが人に見えたのだろうか。
「い、いえ何でも。はは……」
死体を見たとは言えない。曖昧な笑顔を弥子に返し、巽は軽く頭を振った。
「私、いまお迎えに行こうかと」
「そんな、良家の令嬢が夜道を一人歩きなど」
「本当の私は令嬢ではないもの。ご存じでしょう」
弥子は子宝に恵まれなかった堂本夫妻の養女だった。だが教授がこの娘を溺愛している事はよく知っている。
「いいえ。あなたは堂本弥子令嬢。僕の、大事な人です」
嬉しそうに頬を染める彼女と並び、巽は屋敷に向けて歩き出した。
「今回は教授からのお誘いなんです。僕たちの結婚に許可をくださるのかも」
「ではこれのおかげですね」
弥子が挙げた左手の小指には、編んだ絹糸でこしらえた白い指輪。同じものが巽の小指にも巻き付いている。
「巽さんが教えてくれた、私たちを結び付けてくれるおまじない」
「ただのおまじないですけどね」
「あら、それも呪術の一つだってあなたが」
「……照れ隠しを察してください」
くすくすと口元に手を添えて笑う仕草も愛らしい。
教授の論文の手伝いで訪れたこの別宅で二人は出会った。弥子の真白な肌に巽は息を飲み、彼女の方も研究の事しか話さないような巽をいつしか心待ちにするようになった。
二人が秘かに恋仲になったのは必然といえるだろう。
「お父さまとお母さま、今日はお揃いなんですよ」