武田賢治は、裁判官である。
父親は高級官僚、母親は有名私立女子大学卒のお嬢様で、結婚後は専業主婦という裕福な家庭で育った。彼には妹がいるが、もちろん、彼女も有名私立女子大学に通っている。
父親は帝都大卒のエリートで、武田も小さいときから、帝都大を目指すのは当然の前提として勉強主体の生活を送ってきた。
小学校のときから家庭教師をつけて勉強し、成績優秀で、当然のように有名私立進学校に進んだ。そしてまた当然のように帝都大法学部に現役合格した。
武田が小学生のころはまだ友達がいないということに慣れていないので、子供たちの輪の中に入るようにしていた。
そんなときに、他の子供たちが、「アイーン」などと叫びながら、片手を肩の高さまで水平に上げて、それを折り曲げて喉元に持ってくる仕草をしていることがあった。みんながそれをしているので、まるでヒットラーの敬礼のようでもあり、異様にも思ったものの、何かのはやりの挨拶なのかと思い、真似をしていた。
当時人気のあったコメディアンのギャグなのであるが、そんなことを知らない武田少年は、輪を乱さないように参加していたが、家に帰ると早速、調べた。アイーンというのも、きっとどこかの国の挨拶ではないかと思ったのである。
ところがいくら調べても分からず、結局、子供の世界で通じる特殊な言葉なのだと勝手に理解していた。そうして、だんだんと、子供たちの輪から外れるようになっていった。
こんな風に育った武田は、帝都大に合格しても、合格なんて当たり前のこととして特別に大喜びをすることもなかった。
武田は、帝都大に入ったからといって、特別目指すものもないしこれといった志もないので、漠然と難関といわれる職業として、国家公務員試験を受けて父と同じ高級官僚になるか、司法試験を受けて裁判官か検察官になるかと考えていた。
特段、どちらに決める必要性にも迫られず、とりあえず勉強をしておいて、難しいといわれる試験に備えようと思った。
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