若い蝶と鳥

自転車を漕ぎながら人とすれ違う度、同じ言葉が頭の中で繰り返される。仕方がないでしょ、駐輪場が右側にあるのだから。もうそこなの、仕方がないでしょ。改札を通り、矢印の指示に従って、後ろの足音に合わせて階段を駆けあがる。ほら、私は間違っていないでしょ。

イヤホンをつけ、大袈裟にリュックを前に構える。あらゆるところに潜む人生のゴールライン。内側でお待ちください。扉が開き視線を感じる。誰にも見られない方法は、目を見ること。誰も見ていない。誰も見ていない。呼と吸それぞれに言い聞かす。

席は空いているが、見えない乗客が座っているから座れない。「お前、若者だろうが!」耳栓から流れた罵声に今日も謝る。

スマホの中の人が「蝶になった気分だ」と言った。止まって見える車窓いっぱいの空と田んぼを眺めていると、私の背中にが生えていた。怖い、怖いです。誰か、助けてください。

誰も見ていない。誰も見ていない。助けを求める声も差し伸べられた声も、呟く程度なら思いと同じ、誰にも聞こえてはいなかった。仕方がない。とは、他人がいて成り立つ言葉だと思い知る。どうしようもなくなり、翅を動かしてみる。足が浮いた。扉が開く。

飛ぼう。

何よりも重い他がためのを脱ぎ捨て、もう一度翅を動かすと、今度は簡単に舞い上がった。あっちへ行ったりこっちへ行ったりしながら空へ駆けあがる。これは、飛べているのだろうか。鏡のない世界で、この美しい翅も見ずに堂々と生きてゆくなんて、私には無理だ。うまく飛べず空中でふらついていると前方に、私に似た何かが豪快に飛んでいた。あれは、鳥だ。

なんて美しいんだ。

この空に矢印などなかったのか。

鳥が枝に止まった。

私は見惚れてしまった。

鳥が大きくなる。

なんて美しいんだ。

どんどん大きくなる。

なんて美しいんだ。

どんどん、どんどん大きくなる。

なんて美し……

息を吐き切る間も無く一瞬闇の中にいたかと思えば、私はひらひらと落ちていく、クチバシが捕らえられなかったもう半分の方にいた。田んぼと空が上下ゆっくり入れ替わる。

「君はまるで蝶のようだ」とスマホの中の人が言った。車窓に映る私は、スマホの中のまるで蝶のような人に似た形をしていた。「飛ぶの下手だったね(笑)」「あなたは飛べるんですか?」独り言同士が喧嘩している。人間にテレパシーが使えたら、ろくなことはないだろう。

扉が開く。脱ぎ捨てた鎧を拾い上げると、見事にそれは自分の形をしていた。通路と階段に書かれている矢印に従い、出口の改札へ向かう私は、確かに蝶のようだ。空は、自由ではなかった。蝶は今、自分を守るために矢印に従っている。