もし、早苗が松井家の一人娘だったなら。もし、清三郎が三男でなく長男だったなら。考えなかった訳ではない。けれど、早苗を幸せにできるのはなにも清三郎だけではない。清三郎だけが早苗を慰め、笑顔にしていた子供時代はとっくに終わったのだ。

これから早苗は、長尾何某と夫婦となり、幸せに暮らすのだ。そうでならなくてはならない。そうでなくては、清三郎の想いは少しも報われない気がした。

「どうかお幸せに」

様々な想いをこめて。清三郎は早苗にこの言葉を贈った。清三郎の言葉に笑みを返して、早苗は静かに去っていた。その背中を清三郎は見えなくなるまで、じっと見つめた。

(いつか、この日を穏やかに懐かしめる日がくるのだろうか。いつか、この想いが消えてなくなる日が来るのだろうか)

清三郎はそう考えながら、家路についた。清三郎と源次郎はただ黙って歩いた。

屋敷に着き、柏餅を差し出すと目を見開きながら新之丞はじっと柏餅を見つめた。そのまましばらく、無反応だったので、清三郎と源次郎は焦った。

「兄上、柏餅がお嫌いでしたか。餡こが好きでたまらないと仰っていたのに。味噌餡ではあり  ません。兄上の好物のこし餡ですよ」

慌てた源次郎がそう言い募ると新之丞はクスクスと笑った。厳格な長兄の笑い声など久方ぶりに聞いた清三郎は何がどうなっているのか、さっぱり分からなかった。

「幼い頃、お前たちが桝井屋で馳走になった練り切りを隠して持って帰ってきたことがあった だろう。その時の事を思い出していた。練り切りなど我が家では手に入らないから、私にくれようとしたのだろうが、懐紙に包んで、懐に入れて持ってきたから梅の花の形が崩れてしまって」

そう言われてみれば、そんなことがあった。美しい練り切りを長兄に見せたかったのに、無残に崩れてしまい、源次郎と清三郎はとてもがっかりした。それに加えて大好物であるはずの甘味を前に兄がじっと見つめたまま黙っている。