第二章 日本民主保守党と先立つもの

すると、

「……私の政治家人生はこれまで失敗続きでした。人生は『七転び八起き』と言われますが私の場合、起き上がり小法師さえ起き上がらなかったエピソードまで作ってしまいましたが、もしも許されるならその失敗から学んだ知恵を、後輩政治家に直に教えることで教訓として貰えるのではないか?と自負しています。それで恥を忍んで今日武藤先生のもとをお訪ねした次第です」

と現在の心境を過去のエピソードを交えて語ってみせた。すると笑いをこらえて聞いていた北信越の議員が、

「武藤先生、彼がそこまで達観しているのであれば私は我が党に入党して貰って、我が党の新人議員育成に当たって貰っては如何でしょう」と助言した。

この議員の助言もあり武藤の立ち上げる政党には思いがけなかった野党からの参加者が加わったことで新党に勢いがついた。

武藤はこの関西出身の議員に対しては、この議員が外務大臣時代にアメリカの国務長官に尖閣諸島は日米安全保障条約の防衛義務の範囲内であるという見解を引き出した事を高く評価していた。その為この議員の新党への参加を内心歓迎していたのであった。

この後、与党幹事長のもとを与党参議院全国比例当選のあの二人が離党届を手に訪ねるのであった。

一方、公益財団法人国家戦略企画研究所の理事長職にあった武藤は自身が党首となって新党を立ち上げる関係から、理事長職を辞任し、山脇に代わって貰い、自身は平理事として結党大会に向けての準備を進めていった。

そんな中、離党者が相次いだ与党幹事長の荘田武夫から嫌味の電話が入った。

「折角総選挙で常任委員会でも委員長ポストを独占できる絶対多数を確保できていたのに貴方のお陰で、絶対多数が崩れてしまった。貴方の党が議席を得たなら約束通り補完勢力を務めて貰いますからね」と一方的に捲し立てて電話を切ってしまった。武藤はそれで幹事長の溜飲が少しでも下がるならと、特に反論する事もせず放っておいた。

そしてセッティングされた結党大会前、最後となる山脇とのトップ会談では党の理念として民主主義の大原則である、「最大多数の最大幸福」の追求、時代に即した憲法改正、外交・安全保障の抜本的見直し等について突っ込んだ意見交換が交わされた。