出会い(一三七四年)

「醍醐寺七日間連続公演」で京都中の話題をさらった観世座が二年後(一三七四年)の今日、いよいよ栄えある将軍お成りの能公演をするとあって、会場の今熊野神社界隈は朝から熱気と興奮に包まれていた。

観世座の座長・観阿弥は、当時流行していた舞曲(くせまい)の拍子を取り入れて能の改革をして座の人気を一挙に高めた功労者である。しかも、成功して尚決して驕らぬ謙虚な人柄が幅広い層から好感を持たれ、その人気は絶大だった。

もっとも、常に新しい刺激を求める都の人の一番の興味は、定評のある四十一歳の花形役者より、まだ十歳足らずだった醍醐寺公演の時、天性の美声で観客を魅了した息子、世阿弥の成長ぶりにあった(世阿弥のこの頃の芸名は「鬼夜叉」。その後「藤若」、元服後には「三郎元清(もときよ)」とも称するのだが、混乱を避ける為に一貫して世阿弥と称する)。

勿論この今熊野公演も盛況で、一般の桟敷(さじき)席が埋め尽くされて暫く経った昼過ぎ、厳しい武士達が前後を固めた将軍一行が到着すると辺りの群衆が若き将軍の姿を一目見ようと押し寄せ、一時騒然となった。

その混乱の中、輿から身のこなしも軽やかに降り立ったのは三代将軍足利義満。十六歳の武士という先入観から武骨な若者を想像していた都人は、その貴公子然とした姿に思わず歓声を上げた。将軍に成って既に五年となる義満も、こうして一般公衆の目に晒されるのは初めてで、悪い気はしなかった。

大きな丸い目で周りを見渡しながら席に向かって歩いた。しかし、義満が人々の視線を浴びる喜びを味わったのも束の間、二階正面に設けられた特別貴賓席に腰を据えるや、満場の注目は一斉に舞台に移ってしまった。十一歳になった少年世阿弥が、面箱を恭しく捧げながら舞台に姿を現したからである。

うっすらと化粧が施された白い面、切れ長の目、額の上に絶妙に配された朧の眉、全てが完璧で、神々しくさえあった。

「何と幽玄な……」

義満の隣で、前関白の二条良基(にじょうよしもと)が溜息を吐いた。当代一の知識人として名高い貴族中の貴族が、である。

「あれが、亡くなった佐々木道誉(どうよ)殿ご贔屓の天才子役、鬼夜叉で御座います」

今日の公演を企画した南阿弥がすかさず二人に囁いた。続いて現れたのは、幾分緊張気味の観阿弥。

「翁の役は座の長老が演ずる習わしの所、今日は将軍様の為に特別に太夫の観阿弥に演じさせました」

南阿弥が口早に説明する間に現れたのは千歳(せんざい)役の若者。二十代とあって若い女性客の声援が飛ぶ。