そんな悟は相手の弱点を理解し、解きほぐすことに長けていた。三十二歳の担任教師の上を行くよね、と亜希子は思うのだった。
以前に何かの相談にのってもらった時もそうだった。父ですらそこまでは答えられないだろうと伝えた亜希子の言葉に、悟は珍しく落ち込んでいた。
今までの亜希子にとっても何かを知り学ぶことが、同時に何かを失うことに繋がることはあった。知りたくもない他人の本心や世の中の仕組みは、亜希子から他人と深くかかわる必要性を奪っていったし、孤独にもした。
悟が落ち込むような何かがそこにあるのだとしたら、きっとそれはどんなに親しかったとしても他者が触れてはならないものだ。以来、たとえそれが誉め言葉であっても、亜希子はそこに触れるのをやめた。
擦りむいてしまった膝には、もうあの日の痕は残ってはいなかった。けれども絆創膏を貼ってくれた悟の手の温もりを、亜希子は今でも忘れてはいなかった。
「亜希ちゃん、先ずは自分を大切にしないと、誰も守れないよ」
『困った人だ!』と苦笑いしながら、悟は亜希子の質問に答えてくれた。そして身体を揺することをやめられない亜希子をそっと抱きしめ、その動きを制止した。
何時の頃からだろうか。
痛みばかりか全ての感情が、鉛のように重く鈍くなってしまったのは。
「悟くん、私、もう誰も好きにはなれないよ。もう無理だもん」
亜希子は言葉を詰まらせながら、その手を今度は自分の胸に当ててつぶやいた。
春彦と肌を合わせて解ったのは、春彦自身のことは露ほどにも考えていないことだった。ただ、あの郁子の夫であるというだけで、悟が手放しで褒めた人というだけで、興味関心があったに過ぎなかった。
そんな春彦にあの時、何もかもを許してしまったのは何故なのだろうか。亜希子の心はまるで好きという感情に、鍵でも掛けられているかのようだった。