夕食にはまだ時間があったので中田は部屋を出て長い廊下を渡り中庭に出た。蠟燭は点けていたが周りは闇であった。中田は腰を下ろし空を観た。星が近寄ってきているかのような、綺麗な空であった。

気が付くと、他にもツアーの何人かが中庭に出ていて、誰言うともなく、星の多さに感嘆の声が漏れた。人間は長い間、宇宙は永遠に続くものだと信じてきた。アインシュタイン(1879年―1955年)も、永遠の過去から永遠の未来に静かに広がる宇宙を信じていた時期があったという。

無から生じた宇宙は、再び無の中に消えて終わるのであろうか。宇宙も亦、生まれたものは凡て死ぬ「自然の哲理」から逃れられないということを、人間は知り始めたという。

また、「知的生命である人間が宇宙の存在を認識した時、宇宙は存在したということができる」という少数派もいるという。宇宙に知的生命がいなければ、その宇宙は誰にも認識されない。認識されないということは、たとえ有ったとしても、無いも同然だという。

その論でいけば、神は人間が認識するから存在する、ということになるのであろうか。そうだとすれば、神が存在されるようになったのは、早くて、20万年前ということになるのであろうか。

神は絶対者であられるというから、相対的な存在でしかない人間が絶対ということを語ることが出来るとは思えない。なにしろ、「絶対」なのであるから。絶対者の意志を忖度するなどということは不可能だし、思い上がりの極致である、といえないであろうか。

蠟燭の中での夕食は楽しかった。日本でもなかなか食べられないと思われる程の、正統派の和食であった。男性のコックが食卓に見えて、笑顔で話してくれた。50代であろうか、モンゴル人だそうで、日本で料理の修業をし、食材は日本から来るという。

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