気がついたらこんなことに

私は農家の嫁である。昔は、農家いえば嫌がられた職業だったが、今は違う。誰もが羨ましがる職業であると思っている。嫁いで二十五年が経つ。その間にいろいろなことがあった。

「あなたの職業は何ですか?」

「農業です」そう答えると、「大変ですね」とか「若いのによくやるわね」とか言われた。そして、その後の会話が続かないのだ。まるで、聞いたら悪いことを聞いたかのように。

私は、農業が好きで嫁になったのではない。むしろ、農業は大嫌いだった。結婚相手として、農家の跡取りだけは絶対に避けたかったのだ。それなのに、今、こうして農家の嫁をこなしているのだから縁とは不思議な物だと思う。

私は高校卒業後、いろいろな思いと夢をもって、輪島を離れることを決意した。いちばん華やかだと思っている東京へ行くことにした。タイプの専門学校を選んだ。当時は、タイピストが流行っていたし、習わなければできない仕事だった。今は、自己流であっても簡単に誰もができるのだけど・・・。

東京に行きたい!などとは、平生から言っていなかったので、両親や周りの人達は大反対した。反対理由は、私の身体が弱かったからでもあった。「そんな弱いもんが一人暮らしができようか」と言われた。

こうなると私も負けず嫌いだから、誰が何と言おうと絶対に東京に行ってやる!とがんばった。とにかく、田舎を出たかったのだ。カバンにはいろいろな薬がいっぱい入っているのはないしょだ。

夜行列車に揺られて十時間。私が眠れなかったように、両親も眠れなかっただろう、と今ならわかる。反対を押し切って出て来たのだから、簡単には帰れないぞ、と覚悟した。

アパートは古くて狭かった。

でも、そこには誰にも邪魔されない天国というか城というかの感があって、私は大好きだった。弱い身体とばかり言われていたから、親にまけるものかと思った。

専門学校では、英文・和文タイプの練習に加えて、英会話など秘書としての勉強もあった。昼は学校で、夜は本屋さんでバイトをした。一週間まるごとスケジュールが入っていて、新鮮で何事にも一生懸命だった。そういえば、身体の弱いことも忘れていた。

当時、私は輪島の田舎から出てきたことを誰にも知られたくなかった。それなのに、どうしてだろう。東京のデパートで「ふるさと物産展」というイベントがあると、なぜか足が向く。

能登・輪島の漆器や朝市で売られている乾物などが、所狭しと並べられている。電車の中でポスターを見つけると、必ずといっていいほど通ったものだ。