第4章 合目的的なる世界

第3項 合目的的世界×将棋

1 顔のない数値

合目的的世界の厳しい波は、将棋界にも打ち寄せる。『電王戦シリーズ』に始まった「人工知能vs.棋士」と表するイベントは、異種格闘技と見紛(みまが)う程の鮮やかさと構造的単純さで、名人と「電王手一二さん」が位置的に相対して将棋の盤を挟む場面を現すに至った。

多くのファン(のみならず多数人)がこの将棋イベントを見、名人が投了するのを見、然(しか)して「ソフトのプログラムの構造上の不備を突かずに正面から挑めば、今や将棋は棋士よりも人工知能ソフトの方が強いのか」と思った。さながらボス猿とナンバー2の喧嘩を眺めている群れの如し。

猿の世界なら、トップを決める肉弾戦、実力行使の戦いを行い、群れの残りは勝った方に従う。人間の社会も今やそれくらいシンプルだろうか? もとい、漫画家の福本伸行氏がそのあらゆる著作で描かれているように、“人は強者が好き”だ。「人は……強者が……好きなのだ……。強者に従う」(『天 天和通りの快男児』3巻より)

ただ、その“強い”が問題だった。例えば、“光速の寄せ”で高名な谷川浩二九段を羽生善治二冠はかつて「谷川先生の将棋は指し手に制約が多い。そして制約が多い故に強い。」という趣旨でその強さを称えた(ちなみに私は谷川九段が解説の折に使われる“戒め”という言葉が好きだ)。

ファンの存分なる主観的愛着ももちろん考慮に入れて、古来より強い棋士というのは、たくさんいたのだと思う。どの棋士が強いのかを自分なりに考えるのも楽しかった。

鈴木大介九段の先崎学九段にまつわる心温まるエピソード(先崎九段の結婚式の際に、先崎九段程の才覚ある棋士がその才ほどに結果を残していないのが歯痒(はがゆ)く悔しいと涙したという)も、レーティング・勝率等々の後付けの数字に先んじて、鈴木九段の思い描くところの強い棋士像を先崎九段の内に見出していたのだろう。

“どの様な棋士が強いのか”というロマンに満ちた不朽のテーマ。

理想の棋士観は、棋士の鍛練の仕方や対局に向かう姿勢、指し手の向き、より根本的には棋士の在り方を定め、その様な棋士観に基づいて指される将棋の集積が、将棋の歴史を象(かたど)ってきた。ファンもまた、自らの棋士観(ロマン)に基づいて、棋士たちの将棋を、その歴史を眺めてきた。

強さが指数、レーティング、ランキングという誰の目にも一見して明解なものに現される様になると、ファンは自らの判断を立てるより前に、それに従ってそういうものとして、棋士を見る様になるだろう(スカウターが登場した以降の『ドラゴンボール』の様に。著者は途中で煩(わずら)わしくなったのか、測定不能として破壊してしまった)。

第2期『電王戦シリーズ』第2局が終局して間もなく、テレビ朝日のニュース番組『報道ステーション』が、明るい棋界のニュースとして藤井聡太六段の連勝記録を報道した。その際、藤井聡太六段の強さを“指し手一致率”の高さで紹介、解説した。指し手一致率!