普及の工夫と苦悩 太田雄貴
「出たいと思ったことは一回もないです。今だから言えますけど、あのプレッシャーに勝てる自信がなかったし、家族や友達、知り合いも増えたのでめちゃくちゃたくさんの人が応援に来てくれるであろう中で戦う自分、想像するだけで嫌だし、口から心臓が出ちゃう(笑)。
出るだけならば、もしかしたら出られたかもしれません。でもそこでメダルを獲れたかと言えばかなりクエスチョンだし、もしもそこで金メダルを獲れたら人生は変わるか、と考えたらそれもクエスチョンだった。何より、僕はあの戦いのらせんから降りたいと思っていましたね」
もうフェンシングはお腹いっぱい味わった。東京五輪に携わるとしても違う方法で、と考え始めた矢先、五輪招致とはまた全く異なる転機が訪れた。
引退から2年後の2017年8月、太田は31歳で日本フェンシング協会会長に就任したのだ。
「初めて出た理事会で会長になる。普通はありえないですよね。むしろ理事になること自体躊躇(ちゅうちょ)していたのに、いきなり会長。自分で志したわけでは全くないですが、やるしかないなら使命感を持ってやる。二期四年でやれるところまでやっていこう、と。そういうスタートでした」
まず着手したのは財政面の安定。そして日本フェンシング協会として何を求め、伝えるべく取り組んで行くかという明確な理念を打ち出すこと。多くの競技団体が
「競技の認知度を高め、財政を安定させるためには金メダルを獲ること!」と考えがちであろう中、太田が切った舵は少し違っていた。
「僕は金メダルを獲ることよりも、金メダルを獲り続ける環境をつくることが大切なことだと考えていました。じゃあ金メダルが獲れる環境ってどういうこと? と考えたら、いいコーチを雇い続けなければならない。
そのためにはお金も必要だけれど補助金が減額している中、そのお金を生み出すのは難しいから事業収入を上げていかないといけない。じゃあ事業は何でつくるんだっけ? と言えば、たいていスポンサーが、と答えますよね。
でもテレビ中継もされない競技を誰がスポンサーになるのか。実際に当時の日本フェンシング協会における協賛企業の9割がドネーションに近かったんです。
でもドネーションと、広告として協賛するのはわけが違う。僕はフェンシングを使って自分たちの企業をブランディングしたい、知名度、露出度を増やしたいという企業を取り込んで行きたいと思った時に、まずその〝価値〟を感じさせる舞台をつくるしかないと思ったんです。
五輪が世界最大の祭典になったように、フェンシングの全日本選手権をリブランディングして、ここで勝つことが1つのステータスだ、という見せ方をして、お客さんを入れたかった。フェンシングで有観客なんて無理だ、と言われましたよ。でもやるしかないと思っていました」