お嬢様の崩壊

「いらっしゃいませ」と思い切って声を出すと、先輩社員の治子から「だめよ」と怒られる。「もっと声を張らないと聞こえないわよ」と何度も注意された。徐々に慣れてきたがスムーズに接客ができるようになるまで何週間もかかった。

治子は感じの悪い女性だった。しずかより十歳以上年下なのに、まるで赤ちゃんをあやすように、仕事を教えようとする。その慇懃無礼(いんぎんぶれい)な態度が腹立たしかった。自分のほうがいろいろ経験しているのに、その職場では新人なのだから仕方がない。

ある日仕事から帰る途中、携帯電話に夫の勤務する銀行から電話が入った。

「ご主人が倒れて救急車で運ばれたので病院へ行ってください」と言う。また、足元がすうっと抜けるような感覚になり、お腹の中が逆流するようだった。

吐きそうになるのをぐっとこらえて、搬送されたという病院へ向かった。携帯の乗り換え案内のアプリで病院の場所を検索する。池袋から地下鉄を乗り換えて築地で下車、初めて降りる駅だった。

救急外来で対面した夫は、どうやら熱が高いらしく赤い顔をして息が荒かった。風邪をひいていたうえに極度の寝不足で倒れたらしい。点滴をされており、一時間ぐらいで終わるので連れて帰ってよいと言う。

いったん外に出て子どもたちに電話をして「どこかで夕飯を買って食べて」と言って戻る。廊下の硬い椅子に座って点滴が終わるのを待ちながら、お腹が痛くてくの字になった。トイレに行きたいのを我慢していたら受付の人に呼ばれた。

救急の場合の会計は、内金を払って後日改めて精算に来なくてはいけないらしい。お財布にお金は入っていなかったので慌てて外に出て近くのコンビニで一万円をおろして支払ってから夫をタクシーに乗せた。帰宅したのは夜十一時を過ぎていた。

疲れた。ほんとうに疲れた。お腹もすかないので、そのまま休んだ。