Ⅱ 『古事記』を歩く
── 紀行による「神武東征伝承」史実性試論
一 東征発進の地・日向
── 「神武天皇実在論」を考える
宮崎はさすが南国である。
空港から市内に向かう道路には、異国情緒あふれるフェニックスの並木が旅行者を歓迎してくれる。
時間があったので宿に入る前に、神武の父・鵜葺草葺不合命(ウガヤフキアエズノミコト)を祀る鵜戸神宮へ向かった。
太平洋(日向灘)の荒波が打ち寄せて、岸壁をくり貫いてできた奇抜な大岩の中に、主祭神・鵜葺草葺不合命が鎮座している。青島・都井岬をセットにした観光名所として大勢の来訪者で賑わっていたが、当然のことと言うか神話の息吹きは伝わってこなかった。
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美々津の海岸べりに、「神武天皇御舟出乃地」なる標柱が立つ。神話の国らしいのどかな光景を醸し出している。神武らは前方に浮かぶ二つの島の間を通って大和に向かい、二度とこの地に戻ることはなかったという言い伝えがある。
今も地元の漁師たちは、出漁のとき再びこの地に戻れなくなることがないよう、その航路を避けて通るそうだ。
鵜戸神宮をはじめ、皇宮屋(こぐや)・西都原(さいとばる)古墳群・高千穂峡とさまざまな神話の伝承地を訪れてみたが、そのどこにも神武天皇の遺称地の痕跡を発見することはできなかった。やはり、日向国=宮崎県は「神話と伝説」を売り物にする観光県に過ぎなかったのか。
津田左右吉は、その著『日本古典の研究』の中で、神武天皇東遷の物語について次のように述べている。「こういう未開地、物資の供給も不十分で文化の発達もひどく後れていた僻陬(へきすう)の地、いわゆるソシシの空国(むなくに)が、どうして皇室の発祥地であり得たか」と。
たしかに津田の指摘は首肯できる。だが、 そこから導かれた結論──「東遷は歴史的事実ではない。ヤマトの朝廷は、 初からヤマトに存在した」という見解は、そのままに受け入れていいものであろうか。そんな疑問が頭をかすめた。
日向港からカー・フェリーに乗り込んで、阿岐国・多祁理宮(たけりのみや)の遺称地=広島へ向かった。
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船中、神武天皇論について思いを巡らしてみた。戦前の国史の一ページを飾った「天孫降臨」と「神武東征」は、敗戦後歴史教科書から抹消された。
戦前・戦中の言論統制の反動からか、また戦後民主主義思潮を反映してか、 「天孫降臨」も「神武東征」も民族伝承としての命脈を辛うじて保って、その舞台は「歴史」の時間から「古典」の世界へと振り替えられてしまった。
従って、戦後世代の成長とともに「天照大神(アマテラスオオミカミ)」が、 テンショウダイジンやアマテルオオカミと読まれたりして、教壇に立つ先生方を嘆かせる事態を招いたのである。
時を同じくして時代思潮は左傾化が進み、神話・説話といった類は教場の片隅に追いやられていった。
その一方で、「国を恥じる病」にとりつかれた学者・文化人に対抗する勢 力が新たに頭をもたげてきた。そういった風潮の中で生まれたのが、林房雄 『神武天皇実在論』(昭和四十六年刊)である。
しかし、その内容は古代史文 献の論証や考古学的考証を中心とするよりも、どちらかと言えば民族遺産としての神話伝承を重視した心情的な神武天皇実在説といえよう。
『記紀』説話の考証や弥生期の考古学的知識の援用を受けて、九州から大和へ古代のある時期に武力侵攻があったとする神武東侵論が実証的に主張され出したのは、やっと近年に至ってからである。
古田武彦著『ここに古代王朝ありき』(昭和五十四年刊)において「淡路島以西不戦問題」「速吸の門= 鳴門海峡説」「神武説話と弥生~古墳期大阪湾形状の整合性」「毀(こわ)された銅鐸と大和における後期銅鐸の空白」等さまざまな問題提起がなされている。今回の旅は、その論証の確認作業でもある。