第二章 渡来人に支配された古代ヤマト
7.ユダヤ系同士の覇権争い
考えても仕方がないので、まずは宗像氏を調べてみる。同氏が祀る三女神のうち、市寸島比賣命を中心にして、その血縁関係から探っていきたい。
前著(『魏志倭人伝の中のユダヤ出雲大社に隠された「ダビデの星」』)では、丹後一宮の籠神社にはその絵馬の中に、夫婦神として、天照国照彦火明命(饒速日)と並んで立つ比賣のお姿があった。既にここでは、宗像氏と出雲国首長の一人である饒速日(スサノヲの子)とが、婚姻によって結ばれていることを理解した。
そして市寸島比賣命は、秦氏の松尾(まつのお)大社ご祭神としてのお姿を見せてくれる。同大社のご祭神は、大山咋神(おおやまくい)と中津島姫(なかつしまひめの)命(市寸島比賣命の別名)である。『古事記』にあるように、「次に市寸島比賣(いちきしまひめの)命は、胸形の中津宮に坐す」女神であることから、「中津島姫」は宗像三女神の二番目の神=市寸島比賣命のことである。
では大山咋神はというと、相殿のご祭神である中津島姫命(市寸島比賣命)の子どもとしては登場していない。二柱のご祭神の場合、普通は夫婦か親子である。相並ぶお二方が血縁関係にないということは考えにくいが、大山咋神の父は大歳神、母は天知迦流美豆比売(あめしるかるみづひめ)という聞き慣れないお名前である。『古事記』「大年神の神裔」によって、その系図を示す。
宗像氏を調査中であるが、先に「大歳神」と「天知迦流美豆比売」のことを確認する。『消された覇王』(小椋一葉/河出書房新社・1988年)から、ニギハヤヒのことを調べた一文である。彼(ニギハヤヒのこと:筆者注)がスサノオの子供のオオトシであることを突き止めたのは、京都の大原野灰方町にある大歳(おおとし)神社の記録からであった。
社名から明らかなように、祭神は大歳神である。記録によると、代々石棺や石材を造っていた古代豪族の石作連(やざこむらじ)が祖神を祀った神社だとされ、「石作連は火明命の子孫で、火明命は石作連の祖神という」と、はっきり記されている。
念のため石作連について調べてみると、岐阜県岐南町に石作(いしつくり)神社があり、記録に「石作連は尾張氏と同祖で天火明命の裔孫である」と書かれていた。京都の八坂神社にスサノオの八人の子供が祀られている。そのうち第五子に「大年神」の名前が見える。
スサノオの出身地である島根県にはオオトシを祀る神社が多い。飯石郡三刀屋町にも大歳神社があるが、『神国島根』(島根神社庁発行)によると、「須佐之男命出雲に於て大歳を生み給い…………………」と書かれている。オオトシがスサノオの子供だったことはまちがいない。
こうして、ニギハヤヒは、またの名をオオトシと言い、スサノオの子供であることが判明したのである。オオトシ=ニギハヤヒということが分かると、先の系図も変化する。
ニギハヤヒと市寸島比賣命とが夫婦神であることを考慮すれば、②を市寸島比賣命とすれば、②と③は松尾大社の祭神である中津島姫命と大山咋神にぴったり重なってくる。しかし天知迦流美豆比売が、中津島姫(市寸島比賣)であるという証拠は見当たらない。これは筆者が知らないだけかもしれないが、常識的には天知迦流美豆比売=中津島姫(市寸島比賣)であって、系図も以下のようになる。
言うまでもなく松尾大社の祭神は②と③の母子神であるから、①の父神ニギハヤヒも近くに鎮座しているに違いない。先に引用した部分には「京都の大原野灰方町にある大歳(おおとし)神社」とあって、その祭神オオトシがニギハヤヒであることは、もう証明済みである。
①のニギハヤヒはまるで母子神を優しく見守るように、松尾大社南方5〜6㎞のところに坐して、大原野の大歳神社祭神となっていたのである。ニギハヤヒは出雲系首長の一人であるので、秦氏がお祀りする松尾大社の直接的な祭神とはなり難い。実際の松尾大社の祭神は中津島姫命であるから、秦氏がお祀りする理由は、姫の血筋である。
そして彼女の子の大山咋神である。因みにニギハヤヒを祀るのは三輪山であり、そのオオモノヌシこそニギハヤヒである。
天孫と出雲の戦い(国譲り)が、ユダヤ系同士の覇権争いであることを明確にするために、宗像氏が秦氏の一族か、または秦氏そのものであることを証明した。これでやっと、国譲り戦の真相に迫ることができる。