7 「マルチステージ」に入る

明治生まれの父は、まさしく「マルチステージ」の人生に挑戦した。国立大学を特待生(とくたいせい)で卒業して軍隊に入った。幹部候補生がスタート、ほんとうのエリートである。

海軍航空隊大尉として海外で激戦を戦い、最終、兵庫県、淡路島(由良地区)にある秘密飛行場のトップを務めた。実は、終戦近く、ここから若者が特攻隊として次々と飛んでいった。

全員、飛ぶ前に父が面談した。全員志願兵、目が輝き、素晴らしい若者、日本のために亡くなったのだ。この事実は、地元の人にもよく知らされていなかった。

「若者の死を無駄にしてはいけない」と父から何度も聞いた。大きな袋を押し入れから発見した。慰問(いもん)に来た宝塚歌劇団のスターからたくさんの励ましの手紙をもらっていた。母のはなしでは、厳しい戦場にいたのでよくもてたようだ。

父は、「一生、人のために働きたい」といい、定年後も働きながら、いろいろな国家資格をとり、しごとの範囲を広げていった。80歳を過ぎても現役で頑張り、年金には手を付けていなかった。

髪の毛は黒く、実年齢を聞いて驚く人が多かった。当時の平均寿命は今より10歳程度若い。90歳を過ぎた敬老の日、市民会館の大舞台で全員に詩吟(しぎん)を披露し、拍手喝采を浴びた。高齢者に勇気を与えたのだ。

94歳で亡くなったが、亡くなるとき父から感謝のことばをもらった。妻には嬉しそうに目に涙を浮かべていたという。

いくら長寿でも、元気で、人格の成長がなければまわりに迷惑をかける。ほんとうの長寿とはいえない。

軍隊で身に付けた規則正しい生活、きれい好きの父、「おとうさんを見習いなさい」と妻は父を大変尊敬して、最後までよく世話をしてくれた。実はわたしの「マルチステージ」は父の影響を強く受けているのだ。

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