第一章 強腕・藤原百川の策略

「薬子(くすこ)の変」を語るには、奈良時代後半(770年)の称徳女帝(しょうとくじょてい) (四十八代)の世情を知る必要があり、特に薬子の一族である藤原百川(ふじわらのももかわ)の朝廷への影響力は無視できません。

称徳女帝(先の孝謙天皇)は、藤原仲麻呂の乱で天武天皇の皇子である淳仁(じゅんにん)天皇(四十七代)と不和になられ、それを廃して再び天皇に返りざき(これを重祚という)、あの怪僧の弓削道鏡(ゆげのどうきょう)を愛人に持って彼を次の天皇にと考えられた女性天皇です。

壬申の乱(672)で天智天皇の子の大友皇子(三十九代弘文天皇)と天智の弟、大海皇子(四十代天武天皇)が皇位を争われ、結果、天武が勝利された後は、称徳女帝まで約百年、皇位は天武系で継承されてきました。

称徳の死後、天智系の白壁王(しらかべおう)(四十九代光仁天皇)が皇位を継承されることになるのですが、その経緯は順調なものではなく、称徳の血縁に近い皇族が不在ということもあって大層もめたのです。

称徳は感情にまかせて人を刑するほどのお方で、そのため皇族でも禍に陥る人が多く、白壁自身も女帝に対して距離を置かれて酒におぼれていたほどでした。

白壁王のお側には井上内親王(いがみないしんのう)と、もう一人高野新笠(たかのにいがさ)という女性がありました。

井上内親王は聖武天皇(四十五代)の血を引く称徳の異母姉妹で、白壁王との間に他戸王(おさべおう)をもうけられています。

もう一人の高野新笠は、父が百済系(くだらけい)渡来氏族(百済は朝鮮半島の南西部にあり、660年に新羅(しらぎ)、唐(とう)の連合軍に敗れて日本に逃れ、大伴(おおとも)、物部(もののべ)、巨勢(こせ)氏らが大和中心に集団を成した)和乙継(やまとのおとつぐ)で、母親も身分が低く、白壁王との間に山部王(やまべおう)と早良王(さがらおう)をもうけられました。

天智系として不遇の時代を過ごした白壁王もまた、強(こわ)らかな女帝、称徳の治世下で不安な生涯を過ごすよりもと、次男の早良王を東大寺に託され、十一歳で出家、その後は親王禅師として青年時代を南都(奈良)でお過ごしでした。

しかし称徳女帝が崩御されると白壁王の周辺は一変します。称徳女帝は愛人の道鏡(どうきょう)を後継者にとお考えでしたが、女帝があと一歩のところで亡くなられたことで道鏡の野望も崩れ去ります。

この道鏡という人物は天皇家とそれを取り巻く藤原氏にとって誠に厄介な存在でした。この時代は、日本では推古天皇に始まり、皇極(斉明)、持統、孝謙(称徳)と女性天皇の時代がありました。

古来、我が国は男性が女性を支配するという考えがなく、女帝が男の家臣を従えることは当たり前のことだったのです。ただ女帝の夫が天皇の一族で守られてきたことにより、天皇家の血統も継続されてきたのです。

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