Ⅰ レッドの章

聞き取り(一)

戦後四、五年経つころからようやく人も物も回復の兆しを見せ始め、そこへ朝鮮戦争特需が加わって日本経済は息をふき返しつつあった。以前神林の会社で働いていて戦争を生き延びた船員も会社に戻って来た。彼はそれらの元船員を米軍の運搬船に貸し出した。

彼は地元の信用金庫に融資を頼んだが、担保が少ないという理由で貸し渋られていた。窮余の策として目を付けたのは、同じ鶴前の海運会社を経営する乾(いぬい)芳雄(よしお)という人物だった。

彼の経営するマルイ海運も敗戦後、軍の仕事がなくなり経営難に陥っていた。より規模の大きい神林と組んで新しい事業に一枚加わるというのはそう悪い話ではないはずだ。乾は東京の大学を出て一見紳士風、頭の回る冷徹な男という評判だった。

しかし乾とはその提携話を巡るトラブルで揉めていたらしい。火事の当夜に禎一郎は乾と町の中心にある小料理屋で会食をしたが、その際に激しく口論していたのを周囲の者に聞かれていた。

禎一郎は西鶴前漁業組合長とも折り合いが悪かった。船の運航水域の件で揉めていたのだ。戦時中は漁業組合は漁師の多くが兵役についており、平時の勢いを喪失していた。また海軍とは互角に渡り合えない立場もあって、操業水域のことで揉めることはほとんどなかった。

だが戦後三、四年経ってようやく漁業を再開し、今まで幅を利かせていた旧海軍関係の船会社と争うようになった。海運会社の船が漁網を破るとしばしば文句をつけ、お互いに権利を主張して譲らない。神林海運はその争いの筆頭株で浜の漁師に憎まれていたのだ。

禎一郎の妻の遠縁に当たる高橋左右吉(そうきち)とは土地の売買の件で揉めていた。

高橋の家は、元はその辺に広大な土地を所有する素封家として知られていた。左右吉はその本家の跡継ぎだった。神林の妻の実家は、元は高橋の分家で土地や資産を持っていなかった。

左右吉の家は明治から大正にかけて、東鶴前市を取り巻く広大な農地を百数十町歩所有し、また鶴前港の近くに三百坪の土地を持つ富農だった。鶴前の南東に位置する稲荷神社を囲む農地はその昔その辺に大きな梅の木が生えていたことから〝梅の木〟と呼ばれていた。

先代の当主までは土地を付近の百姓に貸す一方で、自分でも農業を営み、地道に先祖代々の土地を守ってきた。だが先代の当主の妻は息子の左右吉を見て心配し、「余程しっかりした妻を持たない限り、左右吉では身代を持ちこたえられないだろう」と言って、嫁を自分で探してきた。

その母親の心配が当たって、当主が亡くなると左右吉は友人と称する連中と新案特許の健康器具の販売だの、海産物の加工機械の開発会社だのを興しては、ことごとく失敗。その都度土地を切り売りして身代を取り崩していった。