芳子が間男を演じていたとして、その動機は何だったのか。疑問は残るが、そんなことはもうどうでもよかった。大方、新人の活躍が気に食わなかった、といったところだろう。

怒りも、恨みも、心残りも、未だに胸中でくすぶっている。だが、完全に後の祭りだ。芳子は当然否定するだろうし、冬輝に話したところで信じてもらえるとは思えない。結局は相手の本性を見抜けず、易々と心を許してしまった自分が悪いのだ。

では一体、誰になら心を許してもいいというのか。

人と繋がっていたくて、人の笑顔のために働き、人を心から信じた自分が、どうして人だらけの都会のど真ん中で、これほどの孤独を味わわなければならないのか。その理由を、誰でもいい、一言だけでも説明してほしかった。

ふと我に返ると、知らないうちに涙がこぼれていた。赤子の小さな頰に、ぽたり、ぽたりと雫が落ちる。迷っている場合ではない。こうなってしまった以上、他に道はないはずだ。

──帰らなきゃ

飲食店が建ち並ぶ目抜き通りは、終電の時間を過ぎてもまだまだ賑わっていた。行き交う人々の間を、覚束ない足取りで縫って歩く。ようやく交番の赤い電灯が見えてきたが、なかなか距離が縮まらない。もはや摺り足にしか見えない鈍足では無理もなかった。

身体はとうに限界を超えている。もうどこが痛くて、何が辛いのかさえもよくわからない。

交番に辿り着くと同時に、虚空へ向かって赤子を差し出した。交番の前に立っていた若い警察官が、鼻先に突き出された赤子を見てきょとんとしている。

「この子を、病院へ。お願い……」

警察官は呆気に取られながらも、素直に赤子を受け取った。そのまま足元に頽(くずお)れ、どこまでも深い溜め息を漏らす。

「お母さん、大丈夫ですか?」

赤子を片腕に抱いた警察官が、心配そうに身を屈めて囁いた。おかあさん──。ひどく使い古された、真新しい響き。返事をしようと力を振り絞ったが、一度俯いてしまった頭はなかなか持ち上がってくれない。

「あれぇ、猿なんか抱えてどうした? 猿の捨て子かぁ?」

泥酔した男の胴間声が、深夜の繁華街に響き渡る。次の瞬間、警察官が返事をするよりも早く、肉を打つ湿った音が轟いた。酔っぱらいに渾身の平手打ちを見舞ったのは、顔を上げる力もなかったはずの爽香だ。

「誰が猿よ! 私の子に文句あんの!」

両目を丸く見開いた酔っぱらいは、口元を震わせてそそくさと駆け去った。交番の奥から別の警察官が飛び出して来る気配を感じたが、その後の記憶はまったくない。

ただ、薄れゆく意識の中ではっきりと感じていたことがある。あの温かくて懐かしい感覚は、幼い頃、母親に抱かれたときのむせ返るような多幸感に違いなかった。

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