─ガタン・ガタン・ゴトン・ゴトン─

その音と形状は、子どもの頃に抱いていた安心感と郷愁とを、何とは無しに感じさせてはくれる。ただこの風景を再び、家の二階の窓から眺めるのが朝の習慣になるとは思いもしなかった。ともあれ……

僕は高校を卒業すると、一年間浪人をして京都にあるR大学経営学部に入学した。ところが、大学三年生の春に父が病で急逝する。五十八歳であった。

その後、半年ほど悩んだ末の三年生の終わりに大学生活に見切りをつけた。バイトや奨学金制度を利用して卒業まで頑張るという選択肢はあった。しかしそこまでして大学で学ぶ理由を、当時の僕は見つけることができなかった。

取り敢えず親戚の紹介で京都にあるD百貨店で働き始めた。もちろん、非正規社員である。当時は一九八〇年代の半ばで、七〇年代に起きた「オイルショック」を乗り越え、社会も比較的安定した時期であった。

そして八〇年代の後半には「バブル経済」が訪れる。大学を辞めた頃は売り手市場で就職に困ることもなかった。そのため、半年もすると正社員として採用されることになる。食料品の売り場勤務であった。

営業職は今もそうであるが、昔から需要があった。ところがデパート(百貨店)の売り場は女性社員が主役である。したがって女性販売員の発言力は驚くほど強い。大奥のような世界!?とでも云おうか。

特に売り上げ実績の高い女性販売員ほど職場では顔が利く。現場の課長や係長クラスでは、到底太刀打ちできないほどの発言力が彼女たちにはあった。このような職場にあって、生来の懦怯(きょうだ)な性格は克服どころか一層助長されることになった。

必然として職場でのコミュニュケーション不足や、人(特に女性)との距離感を掴むことに疲労感を抱えることとなった。結局それが解消されないままに、四年ほど勤めた会社に辞表を提出した。そのようにして実家に戻った僕は、四月の中旬から隣の地区にある「南牟婁郵便局」でアルバイト職員として働き始めたのである。

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