あの時のボタンは家に持って帰ってどこかにしまっておいたはず。だけど、今となってはどこにあるのか分からない。おばあちゃんとの楽しい時間が私の記憶の断片としてここにあるだけだ。
部屋の中も最近までに何度か訪れた時と変わらない印象。 おじいちゃんは亡くなっていたけど、おばあちゃんがこの部屋を行き来する音で家は全体が生きている感じがした。
ただ一つ違うのは、もうおばあちゃんがちょっと変わってきているっていう事。まだおばあちゃんの様子を見るまでそれほど感じてなかったけど、鯨の切り抜きが貼ってある扉のセロハンテープを見ると、胸が苦しくなった。
「今度おばあちゃんちにみんなで行こう」お父さんがそう言った。
「いいけど、どうして突然?」
中学の美術の宿題が締め切り迫っていたので、私はそんな風に返した。
「あのね、康一朗も杏南も真面目に聞いてほしいんだけど」
そう切り出した両親は、おばあちゃんがボケ始めたことを私たち兄妹に告げた。
おばあちゃんが施設に移る前の最後の訪問になるだろうから。思い出があるあの家とおばあちゃんにみんなで会っておきたいだろうから。とそんな風に言う。
「じゃあ、泊まり?」
お父さんに何気に聞いたその言葉は、泊まりたいという嬉しい気持ではなかったけど、どちらが良いわけでもなく、ただ私の口から出ていた。
「それもいいかもな……」
お父さんのその返事は、今回の小旅行として実現した。
おばあちゃんの家は隣家との壁が低い石だけで作られている。土地はたいして広くない。平屋で部屋が四つある。お風呂と炊事場も小さいがある。玄関脇には小さな水道があって、そこで私はおばあちゃんに手を洗ってもらったことがあった。
小さな庭があって、私が子供の時にはいくらか広い印象だったが今は雑草が住み着いた隙間だけの空間になっている。私がそこに咲いていた小花を取ってくると、おばあちゃんは小瓶に水を入れて飾ってくれた。その時に私の手を洗ってくれたのだ。
庭に面した部屋は物干し竿が縁側の上の方に掛けられるようになっていて、そこには白いタオルだけが掛かっていた。
「おばあちゃん、洗濯物はいつ取り込むの?」
私が聞くと、
「いいよ。杏南ちゃんは、座っておいで。お菓子を食べるかね?」とそう言った。
あの時と変わらないようなセリフだけど、誰か私の知らないおばあちゃんが話しているように聞こえた。