多くの本の作者の年齢は、50代、60代、それ以上に70代、中には80代になっても精力的に書き続けた作者もいます。
それらの本を読む自分も、作者の年齢に近づいてきたので、その作者の心情や、その内容が多少は分かる時期になったのかもしれないので、一層に本を読む楽しみが増します。
これまで持っていた知識が、今の年齢になって考えると、全く違った世界が開けてくることもあります。それが「知る」楽しさです。それ以上に感じることは、ソクラテスが言う「無知の知」を実感していることです。
一つの事を知ることで、自分がいかに知らないことが多いか落ち込むことがあります。これからの毎日は、そのことの繰り返しを味わいながら一日をすごしていくのかもしれません。
そして、人生最後の作業としては、自分なりの「死生観」を持つことです。誰もが通過することでありながら、誰も確信を持って確定できないことです。お釈迦様でも「無記」として、いっさい言及されなかったことです。
「死」が恐ろしいのは、誰もが経験したことのない世界だからということです。一人で死んでいくことの恐ろしさも言われています。しかし、我われは「死」という「苦」から逃れることはできません。
逃れることができないのであれば、視点を変えることで、その恐ろしさから逃れる方法はないのだろうか、と考えました。
「死を恐れる心」については、各人の心の持ちようであり、それを自分なりに分析し、心の有りようを変えることで解決できるのはないだろうか、と思って自分の「死生観」を持つことができると思うようになりました。
同時に、その最期の時がいつかは誰にもわかりません。その未確定なことに悩まされるよりも、「今、ここ」を大切にいきることに集中して、一日を充実していきることが大切だ、という思いも大切です。
斎藤茂太先生の著書『老いへの「ケジメ」』のなかで、「ジタバタと騒がずに、自分らしさを探せばいい。人生の長い下り坂の中に大きな意味が隠されているとすれば、探し出すのは自分しかいない」とアドバイスされています。
自分の人生は、自分自身を拠り所として、自分の人生の目的を探していくしかなさそうです。その目的(夢)を持っているかぎり、気持ちの張り合いを持ち続けることができるでしょう。