知らぬが佛と知ってる佛

二度目の癌闘病記

日常を保証してくれる【知らぬが佛】の活躍には尽きせぬ思い出がある。その思い出は二〇〇六年、君が七十七歳、妻の美瑛子が七十四歳、東欧を旅した思い出の中にある。旅はクロアチアのドブロブニクの観光から始まった。

“アドリア海の真珠”と謳われるその出島は、古い建築様式の館が建ち並ぶ中央を貫いて、大理石で敷き詰められた幅広の道路がある。何世紀もの人々の行きかいで中央部が凹の地に削られて白く光るその道路と、高く築かれた石垣に通ずる急峻な階段状の細道とを行き来しながら、存分に中世にタイムスリップした雰囲気を味わった。

次に訪れたドレスデンでは、第二次世界大戦で廃墟と化した旧市街の見事な復興ぶりと、城郭と教会が建ち並ぶ世界遺産の景観に目を見張った。そしてその次の目的地、憧れのチェコの首都プラハに着いて二日目、忘れもしない八月十六日のハプニングである。

市内散策の途中、市の中心の一つである旧市街広場(ヤン・フス広場)に通ずる小路で、突如、君は強烈な便意に襲われ、思わずズボンの上から肛門を押さえトラムに飛び乗り、堪えて耐えて耐えぬいてホテルに着くなりトイレに飛び込んだ。思いっきり排便した。大量の下痢便であった。

こわごわ便器を覗くと、そこには、見覚えのある某国の国旗を連想するような景色があった。こげ茶の下地の中心に、まぁーるい真紅の太陽がくっきりうかんでいる景色である。下血に間違いない、結構大量だ、と判断した瞬間、君の心がチックと痛んだ。

原因はなんだろう、としばらく考え込んだが、医者であるにもかかわらず旅中にいる君は、そうそう、多分持病の痔からの出血だと、その場はあきれるほどあっさりと、安易に決め込んだ。

が、『いやそれは違うよ。それは、腸からの……』と、【知ってる佛】が言いかけるのを、後ろから羽交い絞めにして両手で口をふさぎ、追言を許さないとばかりにその口に猿轡(さるぐつわ)をはめ込むという、【知らぬが佛】の【知ってる佛】に加えた荒々しい行為が、先刻、心がチクリと感じた原因であったことを君は後で知った。