6.DVとは何なのか:DV原型の末路~父と母・夫婦に下された裁き
結婚適応障害:母の診断名
私の離婚から二年後、八十歳を過ぎた実家の母が「死にたい」と言い始め、ご飯を食べなくなった。体重が四十キロを切った。父の言葉による暴力が始まっていた。母を心療内科に連れて行き、精神科医師から告げられた私の母の診断名は「適応障害」だった。
「うつではなく適応障害です。六十年におよんだ結婚生活への適応障害です」。
あんなに死にたいと言っていた母に「うつ」の診断はつかなかった。精神科入院の必要はないが、母を父から遠ざけ安全な場所に避難させなくてはならない。
きっかけは伯母の死
私の離婚の一年後に、実家で同居していた大好きだった伯母が亡くなった。その直後から、父の妻支配が始まった。伯母は入所施設で末期ガンが判明し病院に移る日の朝、眠るように息を引き取った。八十三歳だった。
伯母は思春期に拒食症で死ぬ寸前まで痩せた。それがこの年齢まで元気に生きたのだから天寿を全うしたと言ってもいい。しかも七十歳過ぎまで看護師で夜勤を続けた。すごい。ただ、この伯母と私の母はカプセル姉妹、二人で一人だった。
伯母は宿り木みたいに私の実家で妹夫婦と同居していた。いつもタバコをふかしてコーヒーを飲み、美容に何時間もかける粋な独身貴族だった。伯母の部屋は、父母の夫婦喧嘩と、夜中に酔って帰宅する父親の怒声から逃れられる避難所だった。
伯母は私に優しく、いつも「お姉ちゃん、コーヒー飲む?」と聞いてコーヒーを淹れてくれた。インスタント・コーヒーだったけれどホッとした。伯母は何もかも知っていて妹夫婦のことに口出ししなかった。伯母の葬儀で母が私に、「あんたの離婚のことは姉に知らせてなかったからね、姉が悲しむから」と言った。知らされなくて良かった。
葬儀で久しぶりに会った遺体になった伯母、黄疸で真黄色なのが美しいミイラみたいだった。伯母こそが、つらい時に私を守ってくれた親のような人だった。大好きだった伯母の死を目前にして、私は泣けなかった。どうしてなのか、骨も拾った、母さえ泣いていたのに、私はいまだに泣けない。