【前回の記事を読む】継母につまみ食いの濡れ衣を着せられ、実の父に棒で叩かれても…。
第二章 幼学綱要を読む
【忠節(ちゅうせつ)・第二】
○国史
②続日本記(しょくにほんぎ)(巻第三十・神護景雲(じんごけいうん)三年九月)
【17】「和気清麻呂(わけのきよまろ)」
奈良時代末期の頃のお話です。
和気清麻呂は備前(岡山県)の人です。
第四十六代孝謙(こうけん)天皇の御代に、因幡(いなばの)(鳥取県東部)員外介(いんがいのすけ)という役職に就きました。
清麻呂は、とても不正を許さない性格です。
陛下は宇佐神宮(うさじんぐう)(大分県所在)の御神託をとても大事にして、まるで神様に仕えるようであり、そのお告げの内容の通りに従っていました。
陛下から大事にされたお坊さんの道鏡は法王になると、太宰主神(だざいのかみづかさ)の中臣阿曾麻呂(なかとみのあそまろ)という人が陛下に対して、宇佐の御神託がこのように伝えていると嘘の話を伝えます。
「八幡神(はちまんしん)は道鏡に皇位を渡せば、世の中は安泰すると言っています」
このため、陛下は、ご自身で清麻呂に対して、宇佐に参拝して御神託を受けるように命じました。
清麻呂が出発する時、道鏡は目を鬼のように怒らせて、剣を握りながら清麻呂に言います。
「神は私が皇位に就くべきと望んでいる。今、使者であるお前が宇佐に向うのは、この理由からだ。お前は、宇佐に行き神の神託を受け、私が望んでいることを陛下に伝えれば、お前に太政大臣(だじょうだいじん)の役職を与え、国を動かすことができるようにしてやる。もし、私の言った通りにしなければ重罪にして処罰する」
その後、清麻呂は宇佐の神宮に詣でて帰ってから、陛下に対して御神託をお伝えしました。
「我(わが)国家は国が始まって以来、君(きみ)と臣下の身分は定まっています。臣下の立場の者が君となることは、未だかつて一度もありません。皇位の継承は必ず君の御子孫によって受け継がれます。無道の人である道鏡は速やかに排除すべきです」
それを聞いた道鏡は非常に怒り出し、清麻呂の身分を取り除きました。
そして、名前を「穢麻呂(けがれまろ)」と改めてから大隅(おおすみ)(鹿児島県)に追いやり、途中で人を使って清麻呂を殺そうとします。
暗殺の命令を受けた者が出発しようとすると、突然に辺り一面が真っ暗になり、雷が轟き豪雨が降り出して、出発することができなくなりました。
すると、突然、勅使(ちょくし)が来て清麻呂を許すことになります。
それから、孝謙天皇が崩御し、第四十九代光仁(こうにん)天皇が即位すると、道教は罪を受けて全ての役職を外されました。そして、清麻呂を都に戻して元の官職に復帰させました。
清麻呂は後に出世して従三位(じゅさんみ)の官位に就き、田二十町(ちょう)を与えられて子孫に残しました。六十七歳で亡くなると正三位(しょうさんみ)の官位を贈られます。
嘉永(江戸時代)の頃には、正一位(しょういちい)の官位を与えられ、「護王大明神(ごおうだいみょうじん)」の号も贈られました。
明治七年には清麻呂をお祀りする護王神社は、別格官幣社(かんぺいしゃ)の社格に並べられました。