さすがに館長は読みが深かった。

館長の話はさらに続いた。

「単に熱田白鳥湊攻略だけが目的であれば、岡崎城から鎌倉街道をそのまま進めばよかった。途中で大高街道に入る必要はなかった。義元は大高城の兵糧入れを松平元康に命じた。懸念したのは、元康が裏切り、信長側につくことを恐れたためだ。

元康が裏切らないためには、義元自身が背後で見つめていないとだめだ、と思った。ほかならない。その結果義元は桶狭間に陣を張るはめになった。大軍できたゆるみもあったと思われる」

館長は少し間をおいてから北野に言った。

「戦闘の話をする前に分かってほしいことがある。今川軍団の数のことだ。一応、二万五千人としよう。行軍するとその距離はどのくらいになるかな」

思わぬ質問にびっくりしながらも北野は頭を働かせた。

「兵士は刀を腰に下げ槍または弓を抱えています。単純に一人一メートルで計算しますと千メートルで千人です。うわー、その計算でいきますと二万五千人ですから二十五キロメートルになります。二列縦隊でも十二・五キロとなります」

悠子と優はこの数字を知り愕然とした。

「われわれは歴史の史実を語るうえで、現代の常識の物差しで判断しがちである。もっと当時の状況を考慮して判断すべきと思う。

北野君の計算どおりにはいかないが、先頭から末尾まで相当な距離となる。部署ごとに部隊長がいると思うが、全体を統率するのは容易でない。命令も迅速かつ適格に伝達されるとは思われない。当時の街道は細く狭く曲がりくねっていたであろう。こうした状況化において大軍は以外と戦力にならず、重荷だけの存在であったとも言えよう」

二人は当時の状況を思い浮かべるように考えてみた。

「つぎに戦闘状況をみてみよう。十九日未明、今川軍は鷲津砦と丸根砦を攻撃した。

城を攻めるには守備隊の四倍から五倍の兵力が必要だ。付近に小さな砦もあったのでおそらく五千人が加わったであろう。その後詰に三千人がいたと考えるのが普通だ。したがって、合計八千人がこの戦闘にかかっている」

【前回の記事を読む】まさに毎日がドラマのように生きていた織田信長。調べるほど奥が深くなっていき…。