忠司が六十四歳頃より考えていた映画で、『開いたままのシャッター』というタイトルまで決めていた。

この映画は、一九七三(昭和四十八)年、ベトナム戦争時代にカンボジアのアンコールワットの近くで行方不明になった(一九八二年死亡確認)報道カメラマン、一ノ瀬泰造の青春映画である。二十六歳という若さの中で、終始やりたいことを何でもやり、そのたびに体当たりの人生を生き抜いて来た一ノ瀬の短い生涯を描いたのである。

軍国主義の時代に青春を送った自分と比べ、そのあまりにも違う生き方に、忠司自身の育み得なかった夢を、一ノ瀬の若々しさあふれる生きざまの中に表現したかったのであった。

そんな忠司の想いを、二度目の妻である美智子の資金的な協力を得て実現することができたのである。実際には『泰造』というタイトルだったが、一九八五(昭和六十)年、忠司六十九歳のときに公開された。

私も八郎や房子と静岡で観に行って、感動を覚えたものであるが、興行的には不興だったようだ。

ここで再婚した妻・美智子についても記載したい。美智子は、忠司より十五歳下であるが、頭の良い活動的な女性で、音楽プロデューサーとして海外で『カリメロ』、『バーパパパ』(主題歌は忠司が作曲)などのアニメなどの買い付けの仕事をしていた。

その仕事を十年で終えると、今度は化粧品パントロン・ワン(株)の創業者として、会社や営業所を持った。二〇一八年八十七歳で、忠司の後を追うように亡くなり、二人は今浜松の墓で眠っている。

忠司は、いつも恵介の弟として見られていたが、決して自分を誇示することがなく、音楽家としての才能あふれた木下家の男だったと、私(筆者)は思っている。

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